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大学を考える



大学再生の可能性をさぐる  
  大学コンソーシアム − 51 − [FMICS BIG EGG 2000年3月号より]
by  鈴木健夫

 第8章ロジャーズ博士の教育論(4)

 [経験学習を容易にする条件]
 もし意味ある学習を促進したいと望み、教育の目標が変化の過程を押し進める事にあるとするなら、一体どの様にしてその目的を充足させていけばよいのか。(心理療法の実績から理論は展開されていく)

「問題との対決」
 経験的学習は、各個人が自分にとって重要な意味を持つ問題や、解決を望む問題に直面するときに最も効果的に行われる。この様な問題に直面することがなければ、意味ある学習を助長することは困難である。
 わが国(米国)の文化の形態では、小学校から高校までの生徒は現実生活の問題とは関係の薄い状態にあるので、この段階の教師にとっては、ある意味で困難を伴うことがある。この点、教員に対する教育は旨くいくことが多い。将来教育にたずさわる者にとって、観察、学生に対する援助、授業計画のような教室での経験の中に、やがては自分が責任をもって直面しなければならない困難な問題を、鋭敏に感ずることができるからである。更にそこから、意味ある学習へと進んでいく。
 学校や教師養成機関が果たして、どこまでこれらの問題に気付いているかは明らかでない。しかしながら、これらの機関の教授たちや行政担当官は、現代の教育に対する一般の人々の強い批判に気付いている程度に、また学生人口の急激な増加によって不測の事態が興りつつあることに気付いている程度に、更に現在の職業教育の効果の薄さを認識する程度において、自分たちが直面している問題と対決するであろうし、自発的学習のムードの中に必然的に入っていくことであろう。
(これらの考えは、創造力や責任ある自立した個性を育む米国の教育改革の基本を形作っているのだろうか?)

「教師が真の自己であること」
 ひとたび個人や集団が問題を明確に認知するなら、教師の態度いかんによって経験学習が興る可能性を増加させることができることは明白な事実である。私は行政者や教授たちに、また将来教職に就く者、更に進んだ教育を受けている教師、それに教室での学生たちにも適応できる方法について、これらを進めていく三つの態度に関して述べてみたい。
 これらの必要な態度で最も基本的なものは、「真実であること、あるいは純粋性である」。
 学習促進者が真の自己であり、在るがままの姿で、飾り気や見せかけのない関係を学習者との間に持つことが出来るなら、非常に効果的である。それはまた、彼が学習者と直接的な人間的触れあいを持つこと、一個の人間対一個の人間として触れあうことを意味している。これは教師が自分自身になりきることで、自己の在りのままの姿を否定することではない。このことから教師は生徒との関係において在りのままの人間であればよいことが分かる。教師は夢中になることもあれば、退屈することもあり、学生に興味を抱くこともあれば、怒ることだってある。また敏感に同情的になることもある。
 教師はまた、学生の学習結果に対して、客観的に悪いとか、学生自身が悪いという意味でなく、自分としてはあまり好まないということがあってもよい。教師はその結果に対して自分の感情をただ表明したに過ぎない。この様に、彼は学生に対して一個の人間になりきることであり、カリキュラムに追い回されている感情のない人間になることでもなければ、知識を世代から世代に伝えるだけの、迫力の欠けたパイプになることでもない。
 役割のみを重視している教師が生徒に見せる意識した姿とは鋭く対立するものである。しかし、教師にとってむしろ意識的にマスクを付けること、役割を果たそうとして鎧を着た教師になること、しかも校門を出るとき以外は、その鎧を脱ごうとしないことは、全く習慣的になっているのである。

「受容的な態度」
 経験的な学習を促進していくことに成功する人たちに顕著に見られるもう一つの態度は、受容的で、学生を尊重し、学生の感情や意見を尊重していこうとする態度である。
 教師が個々の学習者を尊重し、学習者の中のいろいろな面での発展を尊重していく時、経験的学習が行われる可能性は大いに増加する。この様な態度を持った教師は目標を達成する時の満足感は勿論のこと、新しい問題に接近していく学生たちの不安や躊躇も充分受容することができる。またこの様な教師は学生たちに時々見られる無感動や目標達成のための間違った努力、横道にそれていく知識に対する探求欲も受容できる。もしも教師が学習を促進する感情も、兄弟姉妹間の競争意識、権威に対する反感、適性に対する懸念、などの学習を妨害するような感情も、両方共に受容できるなら、その教師は本当に受容的な教師といえる。
 私がいま述べていることは、学習者を種々な感情を持った、種々の可能性を持った、不完全な人間として尊重することを意味している。それは自己の支配下に置くような尊重の仕方ではなく、一個の独立した人格として尊重することである。学習者に対する教師の尊重や受容は人間の能力に対する信頼を、形をもって示す表現なのである。
(ユニークなロージャズ博士の教育論はこうして快適に進んでいく。以下次号)


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