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大学を考える



大学再生の可能性をさぐる  
  大学コンソーシアム − 44 − [FMICS BIG EGG 1999年8月号より]
by  鈴木健夫
第七章 エピローグ(七)

 前項で「ビジネス文書が書ける実力」と言った。そしてその実力を育むためには、小学校からのレポート作成の蓄積、しかも多くの参考資料を読破して自分の考えをまとめていく「実力」と書いた。ここで更に確認しておかなければならないことがある。それは合理性に基づいた論理的な文書でなければ価値がないということである。こうしたことが出来るようになるには教育全般にわたってリエンジニアリングしなければ、とても大学だけで実力を付けさせる訳にいかない。表面上はそれに近いものが書けても、全体の骨格が弱いから相手を納得させる文書にならない。というのは、小さいときから何度も何度も書いては誉められ、指摘され、何処をどの様にすれば立派な文書になるかを徹底的に訓練される教育を受けてきたかであり、全く野放し状態で過ごしてきていきなり大学で指導されたからと言っても直ぐに立派な文書が書けるはずがない。教育とは一貫した目的・方針により育まれる積み重ねなのだから。日本以外の先進国では、この様に貫かれた教育の根幹がかたくなに存在している。それに対して日本は微動だにしないどころか、あっちにフラフラこっちにフラフラと方針が動き、その度に国民は右往左往するばかり。だから文部省はいらない。公立の学校は地方自治に移管する。私立は自らの方針に沿って経営していく。例えば、補助金については小さな事務局が私学からの報告と予定、決算と予算などの資料をまとめ、それを基に査定委員会が決定すればよい。勿論これは公開文書となり、クレームは大いに受け付ける。公的教育は地方自治により格差が生じても、それが自立した自治なのだと理解しよう。ほとんどこれまでの文部省は「無駄」なことばかりしてきた。結果として日本の教育を危機に落としいれた責任はA級戦犯である。厳密にいえば、20年前までは仕方ない。国全体がキャッチアップ中だったから画一的な物造り社会に供給する学生はあれでも良かったとも言える。しかしここの所は全くちぐはぐな教育行政をしている。
 一方、これからは地方自治の格差を恐れてはならない。自治体同志の競争がより良い地方を造っていく。それを画一的な「指導」と称して悪政を押しつけてきた。そんな文部省はもはや必要でない。自治体即ち、市民が選択し、公的教育をどうするか決めればいい。そして教育だけでなく自立した、競争にさらされ、活性化した地方を国民が選択して移動する。旨く行かない自治体は吸収合併が待っている。
 江戸時代の各藩はまさに独立自治を行なっていた。更にヨーロッパの国々もそれぞれ独立した自治をやっている。そして生き残るために独自の文化を育み、経済競争をしている。アメリカの50州も同じである。自由で公正な競争により次なる発展が期待される。私は日本が21世紀に向けて新しい船出をするためには、この「自立した地方」こそ明日を託せるシステムだと思う。不便であっても環境が優れている。教育が素晴らしい。福祉が行き届いている。税金が安い。保守的な慣習が強く排他的だがゆとりがある。伝統文化が維持され保存に熱心である。その様な自治体の個性を国民、いや世界が選択し、付き合い方を模索する。成功例は評価され、悪政はだんだんと衰退する。そんな日本でありたいと私は思っている。

 北欧のフィンランドは外国語教育に熱心である。小学校から英語とドイツ語を教えているという。経済的に自力では暮らしていけない小国だから外国との付き合いが何より大事。高校生では更にスエーデン語とロシア語が加わるという。
 ルクセンブルグは自国には大学がない。ドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・アメリカなどへ留学するのだそうだ。世界中から良いものを留学生が持ち帰ってくる。国民はそれを昔から期待しているという。だから高校生は早くから留学先を決めて、行きたい国の言葉で教養科目を習い、IB(インターナショナル バカロレア)により必要な単位を取っていく。高校での勉強が大学や社会で役立つ実力が養われる。この国はユーロの中で最も経済力が大きい。世界中の金融業がひしめいているそうだ。これを「あんなの世界中のブラックマネーを集めてるんだよ。」と、わが家にホームステイしたベルギー人が言っていた。この様にヨーロッパの人は自国は誉めるが、他国にケチを付ける。それだからこそ、あれだけの国々が存在できるのだろう。
 スイスでは不登校がないそうだ。義務教育を犯す者は警察が取り締まるという。なんとも恐ろしい話だが、「自治」を独立国として維持していく為には、世界が驚くシステムも必要と思えばやればいい。違憲かどうかは裁判所が決める。
 オーストラリアのアデレードという街は昔はこの国の発祥の地の一つだったが、今ではあまり活気のない地方都市である。8年ほど前だが、この街を散歩していて、アデレード大学に入っていった。休日だったのでキャンパスに人影はなかったが、ポスターとかインフォメーションを見ていると、マレーシア・インドネシア・シンガポール・フィリピンなど東南アジアの国々の学生が綴った集会案内やサークル募集が目に付いた。人口の少ないオーストラリアの地方都市では外国からの留学生も立派な「お客さん」なのだと感じたことを思い出す。教育が輸出産業になるのは日本ではいつのことだろう。その為には大学が世界から認められる教育、「実力」を授ける事の出来る「大学の実力」が評価されねばならない。


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