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大学を考える



大学再生の可能性をさぐる  
  大学コンソーシアム − 43 − [FMICS BIG EGG 1999年7月号より]
by  鈴木健夫
第七章 エピローグ(六)

 前項で私は、大学が果たすべき第一の責任は、学生がしっかりと学力を身につける事が出来たのか、社会で役立つ実力を与えることが出来たのか、大学教育とは、そしてその責任とは、考えるまでもなく、この様な職業的専門的学問を学生が身につけ得たのかが問われるのだという意味で、実力と書いたのである。多分読者からは、「なんじゃあ、それは?」と、開き直った質問が聞こえてくるような気がする。その最も簡単な、「社会で即戦力になる専門的な実力だよ。」と、答えるのは、これからの日本の労働市場が流動化していくと思っている、競争社会にさらされている企業であろう。また、「うちに来て、いろいろなセクションの何処へ配属されても素直に、みんなと仲良くやっていければ、大学での学問の実力などあまり問わないよ。」と答えるのは、まだまだ護送船団により、ゆっくりとあまり競争にさらされていないグループの企業だろう。
 この様な見解の相違は企業の大小ではなく、まさに熾烈な競争にもまれていて、激しいリストラと改革を繰り返している企業と、以前からのぬるま湯的企業グループの意識の違いがこの様に異なる反応として現れるのであろう。勿論、後者のグループがそのまま安泰だとは誰にも判らない。
 では即戦力となる実力とはどんなものなのか。
この解答は欧米の大学教育を見れば直ぐ判る。要するに卒業までの鍛えられ方が日本とは格段に違うのである。その違いについて見てみよう。
 まず、資料や文書の読解力が勝れていることである。これは小学校から参考文献を読み込んで自分なりの理解を記述する能力を何度となく練習させられているからである。そして、それらの資料を基に自ら考えた意見・考察をはっきり表現する能力を小学3年頃から鍛えられている。この実力は小学卒業レベル、中学卒業レベル、高校卒業レベル、そして大学・修士・博士課程卒業レベルとそれぞれ評価基準がはっきりしており、これを実力でパスしていれば、その実力は如何ともし難いのである。即ち、公明正大、誰が評価してもその実力は認めざるを得ないのである。だから大学卒業者には、また修士・博士課程の卒業者にはこれくらいの仕事は出来る筈だと言う暗黙の了解が社会に熟知されているのである。即ち、学力相応の文書が書けるという即戦力なのである。
 更にディベート能力がある。これも小学校から鍛えられていて、自己と他者の意見の違いを理性的に判断し、その差異をはっきり指摘する能力が蓄積されている。どこが自分の、あるいは相手の論理の弱点かを見い出し、そこを徹底的に論破する。日本からの留学生が最も苦手とする分野がこの議論なのである。即ち、これも即戦力である。
 更に実力の差にはっきりと追い打ちを掛けられるのが、「教養」の幅と深さである。彼等は大学卒業までに、勿論高校の時に修めたものであっても実力を認められれば、大学の単位がその高校の実力で補完される。即ち免除されるのである。例えば、外国語、歴史、数理統計学、文化地理学、基礎論理学、基礎哲学そして英語の読解力・文書作成・口述議論、パソコン技術などが高校からの単位補完が出来るのである。だから、しっかり高校の教養科目を学習していれば、2年目には3年次に進級できるし、更により高度な単位の取得に挑戦することも出来るのである。ここのところは実際はもっと複雑で自由度も多いようだ。いずれにしても日本の学生に較べてリベラル アート(教養)のレベルの実力が、はなはだしく違うのである。
 同じ学業期間を経験しても、日本では入試そのものにあまりにもエネルギーを費やし、しかも社会に通用する実力が身に付かないという無駄な時間を浪費させられている。あるいは重箱の底をつつく様な、これまた社会では価値のない事に目くじらをたてて記憶させられているのである。
 だから彼等は社会に出て、いきなり責任のある仕事が出来ることになるし、一方は企業のOJTにより1からその業界の用語、即ち日本語から学ばせないと仕事にならないのである。ただし企業内教育を施してから戦力として配属するという、これまでのように企業に余裕があるなら、大学に実力を求めなくともよかったが、激しい国際競争にさらされている企業では即戦力になる労働者を必要とするだろう。ここの所の大きな変化を日本の大学は認識すべきなのである。重ねて言うと、即戦力となる実力とは、ビジネス文書を作れる能力といえる。そのためには教養が豊かで、必要な資料を見つけてそれを読破し、要点をまとめ、書くべき文書をきちんとまとめる事が出来るか、そして正しい議論が出来るかを問われるのであろう。

 これまでの日本の教育では、あまりにも正しい解答を求め過ぎた。基礎数学や基礎的な言語などを除いて、本来社会に必要な教養にはいわゆる正解など無いと言って過言ではあるまい。企業で求めるのは、出来るだけ正解に近づこうとする、素直な態度なのである。そして終わることのない努力をし続ける適応力なのである。

 「そんなこと言ったら、ほとんど駄目だねえ。」と、肩の力が抜ける事だろう。「そう言われてもこれまで日本の企業はそんな学生を数年かかって教育して、社会人・企業人に育てながらやってきたんだぞ!」 これからはそんな余裕のある企業は段々少なくなっていく。だからこそ大学教育の再開発が求められているのである。


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