| 第七章 エピローグ(五)
勿論ここで言う教師とは書籍や資料であったり友人・知人・先生であり、その都度相手を特定して学び習う。このように自ら学習する仕方・方法を教え育むのが本来の教育である筈なのに、これまでの日本の教育の成果を見れば明らかなように全く反対の結果が普遍化している。
これからの日本は教育における消費者としての学びたい者が学びやすい環境をつくることが急務なのではなかろうか。今後は教育というよりはむしろ学習と言う方がよい。つまり消費者である学生や生徒がいかにして自立した責任ある個性と創造力に富んだ人間性豊かな個人になっていくのか、そのために何を学び、何をどのように習ったら良いのかを掴みとるための学習システムが必要だ。これまでの供給者サイドからだけの教育システムでは機能しなくなってしまった。つまり学校は教育の提供者であり生徒は消費者なのである。これまでの日本の教育システムはほとんど提供者の論理でつくられてきた。社会構造改革の中で教育もこのような視点に立たないといつまでも根本的な改革には至らないだろう。行政にとっても供給者サイドの論理から消費者側に大変革をしないと21世紀の新しい日本の「形」が見えてはこないだろう。この消費者からの視点を堺屋太一氏は文芸春秋97年12月号で強調している。
アメリカのノンフィクション作家キラー氏の「クリス先生と子供達」を読むと、小学校五年生を受け持つ女性教師が抱えるさまざまな問題は本質的に日本と同じであることがよく判る。しかし日本と異なるのは教師をとりまく環境が大きく違うことに気付く。校長、ケースワーカー、担任教師の役割分担、そして学校側が関わる部分と家庭に任せる「けじめ」がはっきりしていることである。日本ではそのような互いに責任を持った領域区分がなされていない。そして、母親と妻としてのクリス先生の仕事上の悩みや楽しさが常に夫婦の会話の中に描かれている。日本の女性教師は孤立無援なのではなかろうか。夫は理解は示しても相談相手にならず、託児所や保育所は何かあればすぐに母親を探し回る。一方教師としては受け持ちの子供達の内面にどこまで立ち入るか、その家庭との会話をどこまで進めるか、ケースワーカーの仕事まで要求され、校長は管理にのみ徹している。おまけにクラスは40人とアメリカの倍である。ここで思うことは「責任」という言葉である。日本の学校が考えている責任とは一体何なんだろう。結局は保身への責任であって、子供の自立した個性・創意工夫・豊かな人間性に満ちた学習能力を身につける事が出来たか否かを問う「責任」ではない。クリスがいつも思い悩むのはいかに子供達が学習力をアップすることが出来たか、なのである。21世紀の日本は果たして「組織や地位の保身のための責任」から「明日の若者を育てる責任」へと大改革する事が出来るだろうか。この事は日本のほとんどの役所と一部の大手企業に共通して深く根ざしている悪しき慣習である。これは供給者サイドの論理で固めたシステムの大いなる欠陥だ。これを消費者サイドの暖かいシステムに変換せねばならないと私は心から思っている。大学で言えば「しっかりと実力を身につけさせる」ことがまず第一の責任なのである。以前、アカウンタビリティーについて記したが、ここでも「過去にさかのぼった責任」をしっかり問い正すことが非常に大切である。
もう一つ大切な事がある。それは日本人の美徳とさえ言われてきた「曖昧さ」についてである。私は「高邁なる曖昧さ」は日本人の美徳として保持した方が良いと思うが、いわゆる「通常の曖昧さ」については早急に捨て去る事が大切であると思っている。国際化を唱えるならば相手に理解される人格をしっかりと身につけねばならない。外国人からは自己の意志決定がきわめて曖昧な日本人は理解されにくい。幼児期から大学生までの教育にはっきりした意志の決め方を学習させる。そして自分の言葉に責任を持つ。これが遅れれば国際化はそれだけ遅くなる。
加えて小学校から大学までしっかりと学習させねばならないテーマが「自他の認識」である。自己を認識して他人を認め知る、ここのところをあいまいにしていると夫婦も家族も学校も社会もバラバラになってしまう。まさに今、社会全体が崩壊寸前の状態である。自他をしっかり認識し、理解し合うことにより社会が成り立つ。この倫理や哲学の初歩的・基礎的な学問を身につけさせないから「自他の曖昧な若者」が自分勝手な行動をし社会に重大な影響を与えている。つまり「他人の意見を受け入れる肝要さを養う教育」を徹底させることである。このことは何も自分の意見をすりかえるのではない。自己の意見を主張しつつ他人の意見を理解し受け入れて両者の相違点をはっきりさせ必要なら妥協点を見いだして互いに認め合うことである。それは大いなる寛容という徳を養わないと出来るものではない。教育の最も難しいところであろう。しかし日本の教育にこれを取り戻して欲しいのである。
さて高邁な曖昧さと言ったのだが、これは非常に難しい。自他を認識した上で、優しい・暖かい着地点を見いだすことだからである。日本人同士では容易に着地点を見いだせようが欧米人との間ではいわゆる曖昧さとして誤解を招いてしまう。ここに真の創意工夫が求められるのである。
このテーマについてはノーベル文学賞の大江健三郎氏に譲りたい。
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