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大学を考える



大学再生の可能性をさぐる  
  大学コンソーシアム − 41 − [FMICS BIG EGG 1999年5月号より]
by  鈴木健夫
第七章 エピローグ(四)

 日本でも大学入試制度を変えれば高校の内容も変わってくるだろう。早く日本の学校が明るい笑顔の、生き生きとした輝く目を持った生徒たちで溢れる時代が来ることを願わずにはいられない。

 その為には車の両輪の如く感性を豊かに育み知性を磨くように学習させていくことが肝要であると指摘したい。感性の教育とは、生徒や学生にとって、学校や大学が楽しい場所であり、学習だけでなく生活そのものをエンジョイしながら感受性と行動力を高めることなのである。つまり、積極的に人生を生きていく能力を高め、育むことである。この豊かな感性を身に付けてこそ、責任と自立に支えられた個性や創意工夫、想像力を育む真の教育が可能となるのだろう。

 それでは、どうしたらこの様な教育を為す事が出来るのだろうか?その為の原理原則は簡単なことであると思う。FMICSが言っている「あったかさ」そのものである。教育者は学習者に「あったかさ」で接していく。学習者の悩み、疑問、不満を心を込めて傾聴して受容し、その解答を共に考える。この、直ぐに結論を与えないで生徒や学生が模索し気付くまで、促進・援助の立場を頑なに維持し続ける。こうして感情の共有化を目指す。日本の子供達は親や教師から誉められることが少なく、いつも叱られているそうだ。これでは豊かな感性の教育は良い方向には向かわない。この様に私がはっきりと言えるのは、カール ロジャーズ(アメリカの臨床心理学者)の著作を読むようになってからである。彼の「人間中心のアプローチがあらゆる人間関係の基本である」という説に私は心から共感した。この人間中心主義こそ現在行方を見失った日本の社会を修正する基本的な原理原則・イデオロギーなのではなかろうか。夫婦・親子・教師と生徒・友人同志・職場仲間・政治家と選挙民・役所と市民等々、社会におけるあらゆる人間関係は、ロジャーズがいう「人間中心主義」で対応し、貫いていけば、殆どの場合根本的な問題解決に至るという。教育に係わる人々は大いに研究し実践すべきだと思う。私はカール・R・ロジャーズの本を一部しか読んでいないが、感銘を受けたいくつかを紹介しておこう。

「人間の潜在力個人尊重のアプローチ」(創元社)第四章、権力か人間か教育の2動向p94〜p121
「人間尊重の心理学」(創元社)第三部教育のプロセス その未来p245〜p316

 

 さて次に、私が何故「大学再生の可能性を探る」などと大袈裟なタイトルを掲げて取組始めたのか、記してみたい。教育とはほとんど無縁だった私が本稿を書きたいと思った動機は次のようなことである。

 自分の子ども達の成長とともに悩んだ、わが国の社会の中で矛盾に満ちた「浮き上がってしまった教育」に対する問題意識の高まり。自らの語学力のつたなさが8年にも及ぶ日本の英語教育のまずさによるのではないかと不信を抱いたこと、これは57才になって始めた英会話の講師(イギリスの地方都市リーズ大学出身の好青年)との一年間の個人レッスンでの知見から十分に実証された。更に年毎に新入社員の変化が著しいこと。 挨拶も出来ず、言われたことは指示通りにできるのだが自分で工夫してやってみることが極端に苦手である、新聞や本を読まないから社会への理解が弱い、議論が出来ない、文章が作れない、前向きな意見を言わず言い訳ばかりうまい。このような傾向は昭和50年頃からはっきりと目立つようになったと思う。

 そのころから仕事で訪れた返還直後の沖縄や韓国のソウル・テグウ・キョンジュ、主としてリゾート地の視察に訪れたアメリカ・カナダの多くの地方都市での多くの経験。またニュージイランドを皮切りにオーストラリア、イギリス、ベルギー、デンマーク、フィンランド、スイス、ポルトガルなどへの家族との自由な旅行による体験。また第二章で記したアメリカのセールスマンのような大学教授との出会い。そして15年前からアメリカ人の家族とのつきあいを通して見てきた一人娘の日本での生活ぶり。

 こうして徐々に教育に対する問題意識が膨らみながら目にし耳にした様々な関連情報に接して次第に形作られてきた「我が思い」の丈。これらを通じて戦後50年、社会の変化と教育の在り方について大いなる疑問と意見が涌いてきたのである。 そして、私が建設会社に入り10年の現場工事管理を経て10年の設計担当、そして地域開発計画を17年経験した中での色々な思い出。

 これら全てが渾然一体となって本稿を書き上げる原動力となった。言い換えれば、今まで生きてきた「証の一側面」なのである。こうして書きつづってみると、色々なことを「学習」することが出来た。つまり、この仕事は誰かに教えられたのでなく、自己啓発の結果、湧き上がる、おさえきれない思いがアッと言う間にここまで書かせてしまった。これまでにこんなに長い文章を書いたことなどなかったので、不思議な体験となった。ここではっきりしたことは「教育」されたのではなく、「学習」したのであるということだ。これまでの日本は一方的に教え育む教育が行われてきた。これは教える側の提供者が教わる側の消費者に「一方向的に与えること」である。それに対して「学習」とは自ら主体的に自己啓発を行いながら取り組むことであり、もし情報が不足していたり表現方法が解らなければ教師を探すことになる。


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