| 第三章 これからの社会や企業が求める大学の姿
大学改革の柱
次にこれからの大学のあるべき姿についてその方向性を探ってみたい。現在そして近未来は多様なニ−ズが求められ、かつ提供される社会であろうことは明白である。然るに大学は名称だけは多様性を先取りしているかに見えるが、内容はほとんど変わらない。つまり人材育成のポイントを創造性の開発に焦点を合わせていない。また物作り社会から知恵作り社会に変わるための学問体系の変化に対応していない。皆で一丸となって物作りを進めるためにはこれまでの日本の教育は世界で最も効率の良いものであったろう。しかし、これからはそれだけでは日本がもたないのである。
これまでは東大を頂点に頂き、ひたすら仲良く大学教育産業を文部省の護送船団方式により進めてきたが、これからはユ−ザ−(学生、社会人、外国人)から自由に選ばれ多様なニ−ズに対応し、互いに存在できるための経営戦に勝ち抜いて行かねばならない。そのためにこれまでの様に文部省が「ああしろ」「こうしろ」というのではなく、市場原理にまかせユ−ザ−に選んでもらうのが一番良い。銀行と同じで「大学はつぶれない」「つぶさない」と言っていると何時までも変わらない。
ユ−ザ−から見放される大学は「つぶれる」しかないのである。下手に助けると日本の大学全体の自立意欲が弱くなり世界の大学産業として生き残れないことになってしまう。そう、これからの日本の大学は世界の大学との市場競争にさらされ淘汰されて行くことになろう。この場合の最悪のシナリオは専門学校だけ生き残り大学院、大学は欧米にその大量のユ−ザ−を奪われてしまう図である。その逆として最良のシナリオは欧米の先進国並みに大学教育を文化産業にして世界中から日本に留学生を迎え世界に通用するしっかりした教育を授けて卒業生が世界の各界で活躍すると言う図式である。
日本の大学教育が国際的に大きな評価を得るためには大学側には相当の変換、努力が必要だろう。
そして国をあげての支援も必要だ。その結果21世紀にはこの様な文化的な日本が再生しているかもしれない。
そのための国からの支援の方策としては極端に差別化した補助を行うことが必要である。つまり改革プログラムが良ければ多大の補助を集中して行いそのフォロ−を続ける。一方プログラムに魅力がなければゼロ査定する。いくつかのケ−スで徹底してこの差別化補助を行えば競争原理が働いて良くなるのではなかろうか。この様な荒療治しか今の大学を救う手立ては無いと思う。この50年間の「ぬるま湯社会」に疑問も持たず、又はそれを改革できなかった「つけ」は厳しいものとなっているのである。この責任は国民全てにあると言わざるを得ない。勿論文部省と各大学が最も直接的一義的責任がある。しかし企業や国民、社会にも二義的間接的責任が存在する。彼らに自立した意志や学問に対するストレ−トな意欲があったなら、ここまで大学を低下させなっかたであろうと思われるからである。大学が今一度理念を見直して社会的ニ−ズに対応したカリキュラム、プログラムを用意し真の哲学に支えられた教員団を組織するならば、またたく間に「大学の再生、復権」は実現するだろう。
FMICS 会員の立場から大学改革を見るとき十人十色の意見が沸き上がってくるものと思う。多分そのどれも否定できるものではない筈だ。ただ共通するのは「熱い思い」だろう。長い間企画や計画に関係してきた私としては実行主体者に意見をぶつける形になってしまう。FMICS 会員の多くがスタッフ的業務に携わっているのだから、考えてみると随分読みづらい筋書きにしてしまったと反省している。
本来は大波に打ち砕かれない為の耐え忍ぶ方策としての脈絡で書かねばならない筈なのに・・・。
しかし私には文才は全く無くこれまで通りの書きようで終わりまで走ることになるだろう。感性に強く依存した意見として受け止めて頂きたい。一人の企業人が素人として他人の領分に勝手な意見を投げつけているのである。これからの日本には外側からの意見が必要なのではなかろうか。ともすれば仲間うちだけの枠の中で排他的タコツボ世界に安住したがる日本人社会、それこそが閉塞状態を作り出した根源なのだから・・・。
これまでの官僚主義日本から民主主義日本への変革の兆しは'96 年10月の衆院選でかなりはっきり見えてきたと思う。スピ−ドの差こそあれ行政改革は今後進められて行くだろう。また経済再建の為には規制緩和が最適で、自由競争で多様なニ−ズを引き出すしか日本経済の閉塞状況打開の道は無いとの見方も定着したと私は思う。
私の考える大学改革の柱は多様化、国際化、個性化、創造性である。自立した個性に立脚した多様性を母体とする民主化の方向であって欲しい。結果平等を求めるのではなくチャンスを平等に与える事に力点を置いてもらいたい。そして国際化とは世界各国が認め合い行っている教育ル−ルやシステムを日本国内でも認めると言う事である。
|