| 第二章 大学(教育)をとりまく諸問題
大学の権威の確立のために
日本の大学が質を落としている最大の原因を私は、本来、大学とは「考える場」であるにもかかわらず、「憶える場、教わる場、あげくは遊ぶところ」になってしまっていることに在ると考えている。明治以来日本の大学は西欧の学問を研究し、学ぶところとして機能し、それを目的化してしまった。しかし、西欧の大学は「哲学するところ」であったし、今でもその目的性を見失っていないところに大きな差が生じている。日本では哲学の位置づけは他の学問と同列の存在である。いくら日本の西洋哲学者が哲学は全ての学問の基本であると説いても、日本の学者が振り向かなかったのは、もともとスタート時点から日本の大学が目的性をとりちがえていたことによるものである。彼らの哲学の位置づけは学問の礎であるから、科学も哲学の末端に位置しているのであり、歴史学も社会学も同じである。この認識の違いが「考える」ことの大切さ、根源さ、深淵さから遠ざけ、表面だけの理解にとどまる日本的学問の仕方を生み、現代的社会現象と合い和して大学の低下を招き続けていると私は思う。
博士号にしても欧米では良く考えた人への共通の称号であるのに対し、日本では、各学問領域で勝手に決めたお手盛評定で号しているにすぎない。これからの日本の大学が基本的に大学であるためには、そして世界の大学と肩をならべるためには、日本が独自の哲学を確立し、それに立脚した学問体系を世界に問うことが必要であろう。哲学こそは万学の基だとするなら、日本的、東洋的、アジア的哲学をしっかりと根付かせなければならないし、そこのところが欠けている間は永久に「後追い」を続けなければならない。
社会科学も人文科学も自然科学も日本的、本質的な哲学があってこそその存在の意味が生じるのではなかろうか。だからこそ学問も深められるのである。もしそのオリジナル哲学がつくれないなら西欧の哲学を基本にして「直輸入的学問体系」を再確認すべきだろう。
そしてこの再編成にしろ、独自体系を築くにしろ確立できない大学は専門学校へシフトさせるべきだろう。大学のレベル(標準)をしっかりとつくりあげなければ、日本独自の知恵づくり社会の到来は難しい。
何のために大学があるのか?
何を大学で学ぶのか?
古来から文明、文化を築いた人々は何のために人は生きるのかなど根本的哲学を基に独自の文明、文化を築いてきた。これからの日本の知恵づくり社会の実現のため、あるいは新しい世界へ向けて独自の文明、文化を発信するため、この独自の「哲学」を基に「大学」を構築することこそ現代の我々にとっての最大の課題なのではなかろうか。この独自性が出来ない間は西欧の模倣を続けねばならず、その間でも、今のように「哲学のない科学」では許されないだろう。
江戸時代までの日本があれだけオリジナルな文明、文化を育てられたのは、儒学ー朱子学・陽明学なる哲学が根底にあったからこそである。幕末から維新にかけての多くの若い人材をあれだけ輩出できたのも、大塩、吉田、西郷へと受け継がれていった陽明学を基本とする、日本精神がスジ金として貫かれていたからだと思う。それに比べて現代の日本はその寄って立つところの基盤を見失ってしまった。独自の哲学をつくるのか、西欧の哲学にカブトをぬぐのか正念場に来てしまったのだと痛感するのである。
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