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大学を考える



大学再生の可能性をさぐる  
  大学コンソーシアム − 6 − [FMICS BIG EGG 1996年6月号より]
by  鈴木健夫
第二章 大学(教育)をとりまく諸問題

日本の教育に潜む非民主化の流れ

 35年前に米国へフルブライト留学した人々の再会と回想録がNHKテレビで放送された。その中で彼らは次のような「想い」を抱いた。
 「自由とは自立だ」と作家の小田氏は言う。
「何故日本の裁判には陪審員制を導入しないのか」という小田氏の問いに、帰国後裁判官で現在弁護士のI氏は、答えた。「日本人は自我の発達がない国民である。陪審員に選ばれたとしても個人の意見は出てこない。声の強い人や影響力のある人の意見に皆が同調してしまう。いわゆる議論が出来にくい人々がほとんどである。他人の意見に反対の意見をぶつけると自分を馬鹿にしていると思いこむ。更にうらみやけんかになってしまう。要するに個人としての自立がなく、自らの意志を持たない人々に陪審員など任せられない。」
 渡米した彼らはステイ先の家庭や町社会にあたたかく迎えられ、一人前の人間として扱われた。この心から他人をもてなすホスピタリティ精神も自由と共に、米国民主主義の柱の一つである。心身障害者への配慮、気配りもホスピタリティの重要な表現の一つである。日本的にベッタリとくっついて面倒を見るのではなく、ある程度離れた位置に身をおき、客観的、理論的に相手へのサービスを選択し、問いかける。あの欧米流ホスピタリティである。 
 最近のNHKラジオのニュースで浜松の市立小学校が、文部省のカリキュラムを英語で行っている放送があった。2年生のクラスが国語以外の全教科が外国人の先生により英語で行われ、上手に会話できていた。そして「文部省の指導内容どおりの教育を英語におきかえているので、インターナショナルスクールと違い、日本の教育であると文部省は認識している」といっていた。この例では、日本式画一的教育、即ち先生は生徒に「これをやりなさい」「こうしなさい」と一方的なオシツケ式教育が単に英語でなされているのである。日本の現代の教育界はこれが国際化教育の先端だと思っているのだから、フルブライト留学35年後の小田氏たちが日本は本質的には民主主義が育っていない、あの当時と一緒だと、嘆く訳である。留学中にアルバイトで幼稚園を手伝った女性によれば、朝、園の前で通ってくる全ての子に、「今日あなたは何をしたいか」と聞くのだという。自分の行動を自分が選択して決める。そして責任感、自立精神などを幼少期から教育していく。
 自分の意見を持ち、それに基づいて討議し、意見の違いを認識しあい、どうすれば調整案として共有できるかという民主的教育。また、個人の成長を最大限に促す少人数の手間暇かけた教育にすべきである。多様な価値観との共生の仕方と創造性や自立した個性を育む21世紀の教育は欧米並の1クラス20名以下で行い、教師と生徒のコミュニケーションを充分構築できる環境にせねばならないだろう。
 また別の放送によれば「さわやか三組」を開級した新潟県の小学6年の21名は、押しつけられる教育に反対して2週間の間、生徒自らがワークブックで勉強し、学校側の反省を促したという。まさに、この子等に学ぶべきである。
 国会も、地方議会も企業や団体も、本質的に民主化が遅れているのは、子供のときからの画一的、オシツケ没個性教育、また、反対意見など素直な議論に先生がまじめに加われないし、答えられない状況のせいである。学校不信、親への不信など最近特に激しい子供達の多くの悲劇はそのほとんどが、このような相互不信に起因しているように思えてならない。今の子供達は種々の情報により、自由な民主的な考え方になじんでいるが、先生や親が「がんこ」に子供達の自立や民主化をはばんでいるのである。このような日本の教育上のあやまりは高校まで同じである。
 大学では入学時の選抜のみ厳しくて、卒業については甘すぎるので、責任感、自立意識のないわがままな自由だけが一人歩きしてしまう。大学を厳しい中にも楽しく、高い教養を身につけ、専門的学問を修得する場にもどさねば日本の明日は来ない。
 日本全体がぬるま湯的社会になり、子供達は大きな矛盾を抱えた状態である。これを救えるのは先生と親しかない。根本的には、この50年間に溜まってしまった非民主的な流れともいうべきものを払拭することである。海外から、また、内なる良識的国民から、日本も民主的な国になったといわれるように早くなりたい。


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