次に、具体的に大妻教育の6年の中でどのような女性像を育てていくのかということについて話したい。まとめて言うと、深い知性と気高い品性をそなえた女性、そして人生のどのような場面にでも必要とされる人材となるように、また、日本人としての誇りを持ち、日本の伝統ある文化を継承しながら、新しいものもどんどん取り入れ、国際社会にもどんどんと出ていけるような女性を理想像として育成していく。
やはり学校教育なので、知性を養うことがとても大切。知性を養うというのは、本校の全人教育ではトップにくることになる。深い知性を養うには、まず知の世界に向かって目が見開かれなければ何にもならない
─ 「知の開眼」と表現できると思う。生徒が勉強している過程の中で「あっ、そうなのか」という気づき、あるいは未知のものを知に変え得た時の喜びや驚き、知的好奇心が芽生えると、勉強することに興味・関心が持てるようになる。そして、学問の世界に足を踏み入れていく。そのあたりのところから、本校の教育として毎日の授業の中で、各教科研究を重ねた独自の教育によって日々育てていく。そしてその時々に必要なことを頭の中にしっかりとインプットし、必要に応じてそれを取り出し、それを使ってものごとを解決する、あるいはそれを使ってさらに発展的なこと、創造的なことができるようにする力をつけていく。
『気高い品性を養う』 ─ 「気高い」という言葉はある意味最上級のことを示し、ここは人格形成の部分に相当する。知育と同等に考えられるのが人間教育であり、車の両輪と理解してほしい。この人格形成では、理想像を育てるためにその根幹となる精神として以下の3つの柱をあげている。
『恥を知れ』『報恩感謝』『高雅礼節』
『恥を知れ』というのは本校の校訓であり、もともと大妻家の家訓であったもの。これは、人に向かって言うのではなく、我と我が心に向かってその行いを問うという意味。そんなことをして恥ずかしくないのと自問自答する、うっかり失敗してしまったと思った時に二度三度と同じ失敗を繰り返さないように自分で注意をしていく、そのように心がけていくと、心の中にだんだん良心というものが育ってくる。良心が育てば、意味ある行動につながり、さらに人間としての誇りを持てるようになる。しかし、人間というのは心が弱い動物なので、私たちを惑わせるような誘惑もたくさんある。いけないとは思いつつ、なんとなく謎めいた負(マイナス)の魅力のようなものもある。そのような誘惑にかられた時に、自分の心の中に良心や人間としての誇りが育っていると、ハッと気がつく。やっぱりできない、人間としてやってはならないことだと気がつく。そしてもしそのようなことをしたら、両親や先生を悲しませることになると感じた時に、一歩踏み出そうとしたその気持ちを抑えることができる。このように、心の中で葛藤を繰り返しながら、最終的には正しい我を取り戻すという意味と考えると、「恥を知れ」という言葉はある意味でヒューマニティに富んだ言葉であるといえる。
『報恩感謝』─「感謝」という言葉は学祖大妻コタカ先生がよく口にしていた言葉。私たちはひとりではけっして生きていくことができない。現在自分がここにあるということは、どれだけ大勢の方々のおかげで現在の自分があるかということを考える必要があると思う。ご両親、知り合いの方、あるいはまったく知らない方からの有形無形のいろいろな恩恵を受けながら現在の自分があるというのは確かなこと。実際にありがたいなと思ったら、素直に「ありがとうございます」「どうもありがとう」という言葉が自然に出てくるようにありたい。自分でできることは人様のためにも一生懸命やってあげようという気持ちを育てていきたいと思う。
本校の生徒たちにはそういう気持ちがだんだん育ってきているということが日常生活の中で多々見られる。たとえば、体育祭が終了すると体育部長が壇上に上がってその日の想いを発表するが、最後に「体育祭を無事に終えることができたのは私たちだけの力ではなく、先生方からいろいろとご指導をいただいたことをはじめ、事務部の方、用務の方などいろいろな方々のおかげです。心から感謝します。」という言葉が述べられたのも一つの特徴である。そのようにして、感謝の心が育つということは、人間が一歩謙虚になれるということであり、日常的にそうであると同時にさらに自分の生き方、人生観につなげていってほしいと思う。自分が成人した暁には、どんな小さなことでもいいから人様のお役に立つ存在となって、自分が受けた有形無形の恩恵を人生にお返ししていくというような人生観につなげていってほしい。自分が一生懸命やったことで人様が喜んでくださることは自分の生きがいにも通じる。喜んでもらえれば苦労した想いも消え、喜んでもらえてよかったと思える。それが人生に感謝をお返ししていくということにつながると思う。
『高雅礼節』─「気高い品性」と一体になる言葉。この頃は「気高さ」や「清らかさ」という言葉はあまり使われなくなってしまった。「高雅」は気高くて優美であるということ。これは、自分自身が自分を磨き続けないとなかなか備わらないもの。言葉遣いや立ち居振舞い、ちょっとした物事に対する心遣いなどが高雅というものの中に含まれると思うが、いろんな形で自分自身を磨き続けることによって備わった知性、品性、心のやさしさがその人のひとつの魅力として空気のように広がっていく、そこにその人がいるだけでやさしさや品位が感じられるというようなもの。そういう雰囲気を持っているというのはとても大切なことで、これからの国際化の世の中にはぜひそういうことも必要だと思っている。
「高雅」と「礼節」はセットであり、高雅であれば礼儀にかなった行いが自然とできるということ。礼儀正しさや礼節というのは少しも難しいことではなく、心のやさしさ、相手に対する思いやりのことであり、相手に対して失礼な態度をとらないことや失礼な言葉遣いをしないというようなちょっとしたことである。また、国際化がますます進む中で、価値観の違いをうめあわせてくれるものが「礼節」であると思う。お互いに礼節をもって接すれば、自然とそこに友好関係が生まれ、信頼や尊敬につながっていくのではないかと思う。やはり、清らかな少女、清らかな中学生、清らかな高校生はとても魅力のあるものだと思う。
今申し上げたことを生徒たちに短い言葉で伝えるために「校長メッセージ」というのを記した。
(パンフレット7ページより引用)
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『知性の星よ淑女たれ』 私の育てたい生徒像
今年も美しい瞳をもった中高生が沢山入学しました。
四月は希望に満ちた月です。教師にとっても、未知なる可能性を持った生徒をどのように開花させようか、という使命感に身の引き締まる思いが駆け抜ける時でもあります。この愛すべき未来の星達を、何としても知性豊かな、人柄のよい魅力ある現代の淑女に育てたいと思っています。それには、かくあるべく生徒達を磨かなければなりません。磨くということは生徒達に試練を与えることでもあります。生徒も入学後、安心して気を抜くことなく、生き生きと知的好奇心を持って高次元の世界に積極的に足を踏み入れ、自分が美しく開花していくことに喜びを感じる生き方が構築できるようになると、試練は喜びにかわります。知性の純粋な目の輝きは、そうした生き方をする中から自然に灯る光です。
淑女とは自ら培った知性や教養と共に思慮深く礼節を弁え、洗練された優雅さを自分の中に養い得た女性、といえるでしょう。礼節は思いやりと洗練の印なのです。ですから私は生徒達に、中高生の頃からそうした要素を育んでいきたいのです。
トレンディーなものは一時のもの。高い志を持って自分を磨くことに喜びを感じるようになれば、試練に耐える力が養われ、自分を美しく開花させることができるでしょう。自分の能力の限界一杯に挑戦できる人こそ未来に夢が持てる人です。
(中略)
人が輝く為には、努力が必要なことや、勝ち得た実力に加えて知性、人柄のよさ、気品が問われることに注目して下さい。
私は、先生方共々、生徒を知的に輝く淑女に育てることに情熱を注ぎたいと思っています。
ご父母の皆さまにもぜひご協力を賜りたいと、心よりお願いする次第です。
・・・・・・父母の会発行『大妻だより』より抜粋
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知性の星とは、知的に美しく輝いた双方の瞳の象徴であり、淑女は気品ある人柄ということである。これからは国際化の世の中にあって、日本の女性はもともと優れたものを持っているので、21世紀の女性はやはり淑女であってほしいと思う。昔のような内助の功というだけではなく、女性も男性も同等に学問や教養を身につけ、社会人としても輝いて生きると同時にいろいろな場面で必要とされる人材としてこれからの世の中を生きていく、そして女性らしい品位や優美さで人間関係を美しくして育てあげていってほしい。そういう存在になってほしいと思う。
私の「淑女観」というのは、考えてみると小さい頃から心にあったものである。少女時代に読んだいろんな読み物、その中で私が一番心ひかれたものは何かというと、賢くて美しくて、小さいながらも自分の身のまわりのことをしてくれる人たちに対して労いの言葉をかけてあげられるようなプリンセスであった。
先日たまたまテレビを見ていたら、物語紹介というもので『小公女』を取り上げていた。父の死によって転落の人生を送ることになった少女が、どんな状況にあっても逆境にめげないで毅然として立ち向かい、心の美しさを保って生きつづける姿に私は限りなく憧れた。これからいろんなことがあるかと思うが、このようなプリンセスになってほしいと思う。
いろいろな国の人と接した時も、ひけを取らないだけの素晴らしさを発揮してほしいと思うので、そのような淑女を育てるためにこれからも情熱を注いでいきたいと思う。
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