■ この3月、聖学院の各校では卒業式が行われた。卒業シーズンの間、小倉校長先生は駆け回ってそれぞれの式典やPTA主催の送別会などに出席した。
■ 先生は聖学院全体の副院長で、女子聖学院の中学校と高校、それに聖学院小学校の校長であり、さらに聖学院幼稚園の園長でもある。小学校82名、中学校162名、高校205名と、大勢の卒業生たちひとりひとりに卒業証書を授与し、そしてひとりひとりに「おめでとう」と声を掛け、それぞれの卒業生たちに講話を贈ってきた。
■ 式次第の冊子を印刷にかける前に掲載する聖書の引用を決め、卒業生の年齢に合わせてそれらを噛み砕いて聴かせる。「すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから」幼な子をとうに過ぎた卒業生たちにとって軟らかくなりすぎないように話している。
■ それ以外にも在校生にとっては終業式があり、毎月毎月各校では礼拝が行われてきた。それらすべてに異なる内容の講話を聞かせることは並大抵の努力ではできないだろう。
■ 「お話が混ざってしまうことはないのですか?」と率直にたずねると、小倉先生は書類棚から何冊にも及ぶ大学ノートを取り出して見せてくださった。
■ そこには数々の講話の内容が書き連ねてあった。新聞記事の切り抜きが貼り付けてあった。一度書いたものに赤や青のボールペンで、後から細かく書き足した様子もうかがえた。一冊分のノートの厚みが、貼り付けた資料や筆圧でずいぶん膨れ上がっていた。表紙の日付を見ると、過去4年間くらいのもの10冊以上で、棚にはまだ同じようなノートが何冊も入っていた。
■ 「その場で話を始めるうえで困ることはないのですが、こうやって書いておかないと後から分からなくなってしまいますから、忙しくても必ず書き留めるようにしているのです。」
■ たとえば、入学の折に聞かせた話の内容から卒業の式辞を決めて送り出したり、テロ事件の際にはイスラム教や世界の宗教問題という同じ話題を学年によってどう聞かせるかを組み立てたり、新聞の身近なニュースから聖書の教えに気付くチャンスを用意したり、子どもたちに話した内容をその後に開かれた保護者会でも視点を変えて紹介したり、そういった形で校長先生は講和の構成や研究に尽力されていた。
■ 「教育は次世代のための責任であり、誇りを持って取り組むべき意義のある作業です。」と小倉先生は言う。今は浅くしか分からないようなことでも、将来きっと深く分かるときが来るのだ。そのときを迎えるためにも、あまり噛み砕きすぎて軟らかく話してはならない。堅いものをバリバリ食べるとあごが発達するように、折に触れ堅いものをいただき、心にそれを蓄えて味覚を知って欲しい。こうして小倉先生が身を削って構成した言葉を受け継いでいくのは、生徒だけではなかった。
■ 先日の高校卒業式の後にPTA主催の送別会が行われたが、多彩な趣向の会が終了した折には保護者の代表からのご挨拶があり、卒業生諸君はもちろんのこと各先生方や父母会、PTA各部の役割を担った方や個人的に多大なご協力を賜った方など、すべて漏らさずに労い称える丁寧な挨拶をされたそうだ。
■ 私がそれを聞いたのはPTAの役員を務める在校生の母親の話からで、聖学院ならではのその出来事を実際には見ていなかった。けれども小学校でのPTA実行委員会の会合でも、教育という目的を共にして戦ってきた父母や教師がお互いを称える光景を拝見していたために、容易にその光景を想像することができたのだ。どんな些細なことであっても感謝を表すことを忘れず、もし何かの功績を挙げることができたとしたら、その場に居合わせた全員の協力があってこそのものである、という考え方は父母にも浸透しているのだった。
■ 教員同士の話し合いの中でも、何か物事が決定すると、「それでいかせて頂きます」「それでは私がそのように言わせて頂きます」と小倉先生は言う。角田教頭先生が小倉校長先生のことを「私たちの方が恐縮するほどに感謝の気持ちを忘れない方」だと語ると、また別の席では「私は良い伴奏者に恵まれて」と小倉先生。「共に向上しようとすることで、どんな難問でも道が開けてくるのですね。」聖学院に本気で関わったすべての人々が少しずつ声を合わせていき、今は壮大なハーモニーが聴こえている。
|