| §5 評価×ヘーゲル×読解力!? -- フィードバック from Finland -- |
by 岡部憲治
2005/05/26
■ だが、PISAで言うところの読解力(読解リテラシー)=(相対的な)速読力というわけでもないだろう。ある記事で読んだ覚えがあるが、ネット上のBBSなどで一番レスポンスの良い「国別統計」でフィンランドが一番だったとか。それは、独自の視点とちゃんと意見交換が成り立つということからだ。つまり、速読力があるから読解力(読解リテラシー)が高いというわけではないのだ。
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■ 「本を読まないと息抜きができない。」という友人がいる。通勤時に図書館で借りた本を黙々と読み、空想の世界を膨らませたり、もの思いに耽ることによってストレスを発散させているのだ。その友人は図書館で年100冊近く借りているし、読みたい本であれば300人以上の順番待ちを苦ともしない。もちろん、ファンタジーからノンフィクションまで様々な分野を読んでいる。物量的にはすさまじい読書量だ。
ただ、読書後に自分の思いや考えを他人とシェアしようとも意見表出しようとも思わない。つまり、自己完結型なのだ。友人にとっての読書とは生きるための「栄養」であり他人は関係ないのだ。
私はむしろ逆だ。冊数は少なくとも何がしか意見表明したくなる。語りたくなってしまう。なので、PC上でメモ書き程度でも自己表現している。
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■ もともとの性格もあるのかもしれないが、留学時代のEducationがそういうふうにさせたと感じる。ホンマノオトで言われていたヘーゲルの弁証法的な発想はアメリカではバリバリ健在だった。
Hegelian Way というフレーズをESLにいたころから何千回きいたことか。(もっとも、ヘーゲルの一部分が誇張されているような気もするが。)
| Thesis と Antithesis が Synthesis を導き出す |
こんな単純なことをESL時代から日々たたきこまれていれば、否応なしに「意見表出」の構えが出来上がってしまうのかもしれない。
フィンランドの場合もBBSのレスポンス国別統計の例や読売新聞の記事で書かれていた
| 文学を単に読むのではなく、評価できることが、国の教育課程で目標となっているため、国レベルで、インターネット上の掲示板に、本を評価し合う取り組み |
からもヘーゲルの思想や弁証法的な発想が潜在的にあるということが伺える。
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■ 総じて、フィンランドは速読力と読書量がこの構えと合わさって加速度的にPISAで言うところの読解力(読解リテラシー)を向上させているとは考えられないだろうか。つまり、
(速読力→読書量の増加)+ Hegelian Way的視点
= 読解力(読解リテラシー)の向上 |
という式が成り立つのかもしれない。
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■ 私の場合、日本の小中高時代でHegelian Way を実際の授業で受けたことも訓練された記憶もない。
ということは、日本の小中高時代に読書量を増やしたとしても、PISAでいうところの読解力(読解リテラシー)の向上にはつながりにくいのではないのだろうか。フィンランドの本の評価の取り組みで実際にどのような評価をするのかは知らないが、日本の「評価」とは多少の差異があるような気がする。
というのも私が学生時代に受けた日本の教育では、
が混同されているケースが多く見受けられたからだ。一定の視点を複数共有した上での「評価」と個々バラバラの「感想」では、「書く」という作業においても全く意味が違ってくる。現在の日本の教育においてそのようなことはないと思うがやはり気になる。
余談ではあるが、時々セミナーや講演会の聴講に出向く。講演終了後の質疑応答の時に挙手されて質問される方が「質問」よりも「自分の感想」を述べているのを聞くことが意外に多い。自分の感銘した思いを聞いてほしかったというのがあふれんばかりだ。それはそれですばらしいと思うのだが、できれば会場に来ている来客者や講演者と共有できる「提起」もしていただけるとその会そのものに広がりが出るのではないだろうか。
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