| §3 日本語×言語×読解力!? -- フィードバック from Finland -- |
by 岡部憲治
2005/05/19
■ 本末転倒なことを言うかもしれないが、そもそもPISAで言うところの読解力(読解リテラシー)というのは本を読んだ冊数によって決まってくるのだろうか?読んだら読んだ分だけ読解力(読解リテラシー)が養われ高まるということになるのだろうか。どのような種類(ジャンル)の本が数多く借りられており、それが読解力(読解リテラシー)とどのような因果関係にあるのかが語られていないにも関わらず、単純な物量的貸出し数(あるいは読書量)の測定のみで読解力(読解リテラシー)の向上を結びつけるのはいささか乱暴な気がする。
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■ つまり、PISAでいうところの読解力(読解リテラシー)と日本で普遍的に口にされている読解力とは違うのではないだろうか。日本では「読解力(読解リテラシー)=文章読解力」という図式が暗黙のうちによぎっている感がある。もちろん、「文章やグラフの読解力」というふうにメディアでは書かれているがグラフの読解力向上に関してはほとんど明言されていない。
文章読解力と物量的読書量が関係しているかと言えば、個人的にはあまりそうは思えない。私の学生時代の場合、気に入った本を何度も何度も読み返していたが、物量的にすれば全くたいしたことはなかったからだ。年間21冊ぺ−スなぞ夢のまた夢。今でさえ文庫本、ハードカーバーの類は年間二桁いかないだろう。ただし、情報取得としての雑誌類、新聞のスキミングは毎日かかさずしている。もちろん、ネット上のニュースは更新しては読み、また更新しては読みという感じだ。
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■ また、日本語の文章に関してだが、例えば英語の「I」やフィンランド語の「mina」は日本語では「私は」「俺は」「わたしは」「ワタシは」「わたくしは」「あたしは」など多様だ。このような言い回しの豊富さに加えて日本語の文章はひらがな、漢字、カタカナの組み合わせで構成されている。前後の文脈や登場人物あるいは語られる論述の種によって使い分けられるのがあたりまえだ。これを自然にこなしていくのは相当つらいものがあるだろう。第二言語として日本語の「読み書き」を習得するのは難しいと私の友人も言っていた。
また、取材させていただいたフィンランド在住の日本語教師の方によれば知り合いのフィンランド人と日本人のハーフのお子さんがそれは流暢に日本語を話すのだが日本語を読むことはできないそうだ。アメリカの映画を日本語字幕でみても結局、英語もわからず日本語の字幕もはやいのでまったくついていけないということだ。
日本語が漢字だけ、ひらがなだけ、あるいはカタカナだけで構成されていたら、まだついていけたのかもしれない。さらに「私は」に対する多彩な日本語の表現も英語の「I」やフィンランド語の「mina」のように一つのみだったらもっとついていけたのかもしれない。
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■ つまり、言葉の言い回し一つとっても多様な日本語の文章の方が文章読解力としては難易度が高いのではないだろうか。入試でよくアンダーラインミーニング(行間を読むこと)の問題が出題されているが、結局、そのような言い回しを理解していることを前提としたうえで前後の文脈や人称表現などが解くためのキーとして十分関係している気がする。
だから、日本語の本を多く読めばそういう意味での文章読解力は高まるかもしれないがPISAでいうところの読解力(読解リテラシー)が高まるとは言えないのかもしれない。
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