|
■ 精神とは生き方である。生き方とは人間である。人間を育むことが教育の務めであるならば、人間は常に問われつづけられねばならないだろう。聖園女学院の国語の入試問題には、学院が問いつづけ、生徒とともに求めつづけている人間への道筋が記されている。
■ 2つ出題された長文の1つには岡部伊都子氏のエッセーが使われている。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉から、中高生 ― まさにこれからならんとする自分自身である ― や人の痛み、自分の弱さを問い、人間としての幸福や自分自身の「宝ごころ」、「自分を優しく気持のいい存在にきたえてゆくうれしさ」へと流れるように言葉が展開される。
■ そしてその言葉をとおして、宇宙の中の一点としての自己や、人のために何かしてあげるために生まれてきたということ、世界全体や自己との関わりを問う設問が出題される。注目すべきは、あなた自身の「宝ごころ」を答えよという問題に代表されるように、設問の答えが文中にはなく、本文中の手掛かりから自分自身の感受性や経験により解答を構成する問題が多く出題されていることである。その答えの行く先は、その人の生き方 ― 生きし方 ― であり、その精神の向かう方にほかならない。
■ 小学校を題材にした重松清氏の小説から出題された次の長文も同様である。憎まれっ子のクラスメートが入院したときのかすかにゆれる心を追体験することを求めるこの文章は、身近な生活からの想像力による理解や共感を問うている。しかも、それは理解や共感でさえなく、10代の日々のあの特権的な繊細さをこれからの日々への永遠の糧へとさせるかのように、「鉛筆」の「木のにおい」によって「ツン」とした「鼻の奥」へと、その心の震えを確かな感覚と結びつけることによって。
■ 比喩をとおして、自分以外の人の気持ちの表現をとおして問われているのは、その生徒自身であり、人間であり、共に在ることへの、その人が湛えるすべてである。そしてそこにひそむほのかな人間のぬくもりは、この答えのない問いに取り組む生徒達の心にぽっと灯をともしているのではなかろうか。
■ 聖園女学院によって投げかけられた問いの答えを求めようとする生徒たちは、人間としての自己というはてしない問いへの第一歩を踏み出しているのである。
|