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| 学校探し(25)〜栄光は思想なき高度思考を養うイエズス会の学校か? |
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2004年12月15日 |
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■ 栄光の教育力はなんとも完璧なのだ。徹底した論理と体系で教科のシラバスを築き上げている。それは決して要素還元主義ではないが、関係主義的な構造でもない。6年間、大船の駅からあの長い長い坂を通学すれば、誰でも基礎体力がつく。坂を登って、校舎の正面に出れば、広いグランドに視野が拡大する。毎日このすがすがしいなんて純粋な快感。
■ 瞑目から一日は始まり、瞑目で終わる。このメディテーション。これも集中力とストレッサーをピシャリと跳ね除ける技術だ。中間体操も計算された精神医学の考え方がベースになっている。神経伝達物質がバランスよく脳内で交換されるように緻密に計算されている。 ■ 栄光において教科学習と様々な教育活動は融合しているのではない。教科学習が集中できるように、ストレスマネジメントを、坂を歩くこと、瞑目をすること、中間体操をすること、クラブ活動をすることなどでやってのけているのである。このストレスマネジメントを怠ると、男子生徒は女子生徒の魅惑に惹かれてしまう。勉強が手につかないわけだ。まさかと思うかもしれないが、カトリックでは重要なテーマである。 ■ 最近では栄光にとって女子生徒よりも恐ろしい誘惑者は親である。ステイタス、アッパークラスへの所属欲、高学歴主義などなど生徒を惑わすのは親であるという仮説があるらしい。保護者の目を覚ます徹底した研修会が行われているようだ。高度論理的思考へ集中する環境を、ソフトなというか手を替え品を替え戦略的に巧む禁欲という手法(簡単に言えば気をそらす方法)は、いかにもイエズス会的だ。しかし、そんなことは一般の日本人は気づかない。 ■ 栄光関係者、おそらく同窓生だろうが、毎月毎回違う講師がやってきて、社会で活躍するとはどういうことなのか、医学や法曹、金融、大学、会社、公務員など多角的な立場から講義があるようだ。自己実現の目標のイメージを湧かせるのが目的だろうか。どうもこの講演は現実的だ。禁欲と現実。ここにはどうも高度な思考はあるが思想の香りがしない。 ■ しかし、世界の問題や平和について生徒たちは盛んに批判的に思考する。しかし、やはりそこに思想的香りがしない。なぜだろう。そうなのである。聖書なのだ。毎週ある聖書研究は、思想なき思考なのだ。イエズス会において、信仰や宗教は思想などという人間的なものではないのかもしれない。麻布や開成、武蔵とどこか違うのは、まさかとは思っていたが、やはり単純明快、思想の位置にばっちり宗教が君臨しているのである。他のカトリック学校は、そこまで徹底していない。栄光はそれができてしまう。もちろん戦略的にである。 ■ しかし、これまたあまりにうまくできているのだが、生徒にとって栄光の戦略は効果がない。なぜなら、これもまたあまりに簡単なことなのだが、生徒のほとんどが信者ではないからだ。信仰なき者にとって、聖書は何の意味があるのだろうか。世界という舞台でコミュニケーションをとるときの道具としては重要かもしれない。だが、彼らにとっては――イエズス会当局にとっては、残念なことだろうが――、日常の生活では、あってもなくてもよいという存在である。要するに猫に小判。 ■ ということは、信仰に縁がない生徒にとっては、変な思想に影響されずに、女性の魅力に惑わされることもなく、両親の過干渉からも守られ、偏ってはいるかもしれないが多彩な純粋な興味と勉学に集中できる理想的な教育環境が存在しているということになる。これが人気の本当の理由だとしたら・・・。 ■ 信仰ある高度思考力を養成するはずが、思想なき高度思考力を養成しているという矛盾。もしこの矛盾が本当だとしたら、栄光学園はいかにしてこのジレンマ問題を解決するのだろうか。そんなジレンマはございませんと一笑に付されるのが落ちだろうが、OECDのPISAの結果を見て、ふと頂点に立つカトリック学校の使命を聞いてみたくなったのである。
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