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開成中学の入試 〜国語の問題が意味するコト〜

2002年11月13日
by 本間勇人(honma@netty.ne.jp)


■ 今春の開成の中学入試における国語の問題は、昨年に引き続き、長文と記述式問題が出題され話題になった。入試問題は学校のカリキュラムの顔である。このところの国語の入試問題は、まさに開成のカリキュラムの精神を表現しているといえる。この精神は3つの要素が≪言語≫によって有機的につながって形成されている。

■ まず1つめは、国語の≪見えるカリキュラム≫の精神である。開成では、教科書のように切り取られた文章よりも、一冊の本をまるごと読むことから始まるようである。長い完結した文章を論理的に読むことがまずは大切なのだ。そして「読書ノート」や「作品研究ノート」「研究レポート集」を中心に論理的に書くと同時に美学的な素養も滋養する。この両者の融合こそが、開成のいう基礎力なのである。基礎とは易しいという意味では決してないのである。

■ この≪見えるカリキュラム≫の部分がそのまま、国語の入試問題に反映している。長文とそれについて記述させるというシンプルであるが骨太の問題がそれだ。開成に入学したなら、とにかく本を読む。本を読むことに抵抗を感じるようでは困るのだ。しかも、ただ読むだけではなく、論理的に複眼的に読んでいかねばならない。まずはその基本ができているか入試問題では試されている。長文は1題の場合も2題の場合もあるが、とにかく1回の試験で7000字の文章を読んでもらうというのが開成の方針のようである。

■ 6000字の文章だと、開成を受験する生徒の多くは論理的にきちんと読めるというのが経験的データから裏付けられているという。ところがそれを越えると、限られた時間内では、論理が飛躍したり崩れたりし始めるという。小学生段階で、そこをきちんと集中して論理を追っていく力を養ってきて欲しい、そうしないと開成の≪見えるカリキュラム≫の部分で学習していくことさえもシンドイということだろう。また7000字の長文を読める生徒はたいていの場合、論理的に書くこともできるのだが、開成の選択肢問題を解くテクニックだけでクリアする生徒も多くなっているので、直接骨太の問いで勝負しようということになったのではないだろうか。

■ さて2つめであるが、それは開成の≪見えないカリキュラム≫である。この部分は開成では、たいへん大きな部分を占めている。まず他校ではまねのできない部分でもある。行事や旅行を通して何を学ぶかについて言っているのではない。もちろんこの部分の奥行きの深さも相当なものであり、その影響はたいへんなものであるが、それを越える≪見えないカリキュラム≫の部分を有しているのが開成の特徴である。それは開成OBの活躍である。政治家、官僚、学者、医者、文豪など日本で世界で活躍しているOBが、年間数え切れないほど開成在学生に向かって講演をするのである。教科書や書物だけでなく、生の声の思想を教材にして学べるのである。当然、聞きっぱなしにはせず、言語化していくわけである。

■ しかし、言葉は論理の道具に過ぎないのではない、人間そのものでもある。文化そのものでもある。生きた言葉に耳を傾ける必要もある。西日暮里から上野や浅草にかけて、開成が位置する地域には江戸の文化がまだ残っている。その探索にでかけたり、そこで出会った人々と対話したりする生徒もいる。そして、その生きた日本文化をまるごと学校に持ってくる行事があるのだ。開成OBが毎年企画する「ぺんけん寄席」という落語の会だ。言葉は黙読だけではだめなのだそうだ、音声で受容し、音声で発しなければならない。論理だけでは表現力は身につかない、リズムが大切だということだろう。

■ したがって、7000字の文章は黙読によって、理解するだけではなく、音読したりそれを聞いたりして理解することができなければならないそうである。逆に黙読によってなかなか理解できなくても、声を出して長文を読みきる力をつければ、黙読の早さも理解の深さも増すということだ。長文の理解の背景には、開成の≪見えないカリキュラム≫が存在していたのである。

■ 最後に3つめであるが、それは倫理的判断の精神である。開成は細かい規則を押し付けるようなことはしない。自覚と責任をもった人間に育って欲しいため、「考える」という行為をとても大切にしている。「考えて行動」することによって、おのずから倫理的判断はできるはずだというのであろう。開成の入試には、面接がない。面接を通して開成にあった知と倫理観を有しているかどうかというチェックはやれないのである。しかし、書くという知的な能力は、倫理的判断力なくして養われない。書くという行為は、どんな些細な問いかけに答えるにしても、思想や判断が必要だ。ここ数年、書くというトレーニングを積んできた受験生たちは、ひきしまった知を形作っているという。

■ 倫理的判断は、人間の道である。国家や一部の権力者が押し付けてくる道徳とは違う。むしろその道徳の背後に潜む権力をチェックする知的な判断能力なのである。開成は宗教を教育理念には掲げない。むしろ近代啓蒙期の理性的感性的な人間を基本としているのではないだろうか。そのような人材輩出は、徹底した知の鍛錬によるほかに道はない。そして、その知の鍛錬とは≪言語活動≫の鍛錬なのである。



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