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| 愛光学園のインパクト |
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2002年4月1日 |
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■ 700年以上も前、ヨーロッパ中をはだしで歩き、異端を次々と説得し、キリスト教に改宗させていった聖人がいた。聖ドミニコである。彼の友人はアッシジの聖フランシスコ。フランシスコは自然を愛し、動物たちと語り、自らを神の道具にした聖人で、キリスト教の国以外でも人気のある聖人だ。一方キリスト教史で、最も重要な聖ドミニコは、火をふくように雄弁に語った聖人といわれ、彼のもとに集まってできたドミニコ修道会から、後世のヨーロッパ思想の方向付けをした聖トマス・アキナスのような歴史的知の巨人を多く輩出したにもかかわらず、意外と世に知られていない。 ■ まして日本において関係者以外は誰も知る由もないのではないだろうか。そのドミニコ修道会の経営する学校が、松山市にある。愛光学園がそうだ。フライブルグ城がそびえる丘を背景にしてその校舎はある。寮生学校である同校は見ようによってはスペインの自然を見下ろす丘の上にあるドミニコ修道会の雰囲気を継承している。受付のスペースには、聖トマス・アキナスの胸像があり、中世以来の知の伝統を感じさせる。実際、毎年、東大や医学部へ進学する生徒の数は膨大で、その知の強さは実証済みである。 ■ しかしながら、愛光学園が聖ドミニコの精神を脈々と継承しているという点に世間は気づいてこなかった。ただ、東大や医学部にたくさん合格させている学校ということだけで評価してきた。今後は松山に正岡子規や夏目漱石が存在していたことと同じくらい、同校の存在が重要になるはずである。そういう視点から愛光学園を見ていきたいものである。 ■ 愛光学園は、今年から共学校として新たに出発する。なぜ共学なのか。もちろん私学である以上経営上の理由があるのは当然だが、大事なのは教育の論理である。社会の変化が同時に子どもたちの意識や考え方に影響を与え、産業ばかりか子どもたちの内部にまである種の空洞化をもたらしている。かつては一般に望まれる進学率をあげる教育をやっていても実は同時に世界的教養人も育成することができたのであるが、今はそれができない。大学実績と人間としての成長がともすれば乖離しがちである。 ■ かつては、中学から高校まで、同質のカリキュラムで十分だったのが、中学では世界的教養人を育成するカリキュラム、高校では学問的素養を飛躍させるカリキュラムを自覚的に作成していかねばならない。6年間のプログラムの中で、そういう質的な変化をあえてもたせるプログラム作りの一環として今回の共学の問題も浮上してきたようだ。 ■ 東大の武藤芳照教授は、「子供にとって外で遊ぶこと、仲間と遊ぶことが推奨されてきたはずだ。それが急速な社会の変貌の中で、そのごく普通の大切な遊びの意義が軽視され、むしろ学習と相いれない存在とされてきたようだ。その結果、子供たちの学力も体も心もひずみをきたした」(愛媛新聞2002年3月30日)と語り、「学力低下」の問題はもっと本質的な議論をしなければならないと提案している。 ■ 愛光学園は、この武藤教授の考えはすでに見通していて、先んじて自らの教育の中で実践していこうとしているというわけである。社会が変化しているというのは、子どもの学習環境、学習条件の変化を意味している。豊かに変化しているのではなく喪失という変化が、世界的に同時に起きている。その学習条件の喪失はおそらく自然環境の破壊と同一構造を持っているからであろう。条件の喪失は当然回復しなければならないが、そうなれば6年間のプログラムも変わらなければならないはずである。 ■ 文部科学省や学者は変化を鼓舞すれども、その方向性も具体的な提案も示していない。これほど危うい話はない。愛光学園のように独自のプログラムを有しているところは問題ないが、そうでない公立学校は失速しかねない。日本はどうなるのだろう。松山市は、愛光学園を含め、3つの私立中高一貫校がある。来年新たに中学を開設する私学と公立の中高一貫校が加わる。ある意味で特徴がはっきり違う学校システムが進行するわけであるから、松山市は21世紀の教育の実験が行われる拠点でもある。国内外の教育関係者が注目することになるだろう。 ■ それにしても愛光学園の教師はおもしろい。今回訪問した際、いつものように寅岡先生が応じてくださったのだが、教鞭もとられている田中神父も同席してくださった。お二人のお話には、哲学がしっかりとある。3時間以上にわたる論理的な説明と大きな声での話し振りには、大変感銘を受けた。そういえば明快、簡潔、感銘というプレゼンテーションは西欧の思想のスタイルを築いたドミニコ会の文化遺伝子でもあった。そしてお二人の話し方は、火をふくように雄弁に語る聖ドミニコの似姿でもあった。 ■ 一方で、お二人は女子の制服におけるちょっとした問題に取り組んでいらした。一般に制服を買うとき成長を見越して、大き目のサイズのものを購入するが、愛光新入生も同じようにそうした。そこで問題が起きた。黒のソックスと黒のスカートの問題である。大き目のサイズを身につけた場合、スカートをミニにしない限り、黒一色になり、ソックスの働きが失われるという問題である。ソックスを優先するとスカートの丈のルールが守られない。スカートのルールを守ると、ソックスの意味がなくなる。適切なサイズの購入の勧めは、倹約のルールに反する。さてこのトリレンマにどう対処するのだろうか。 ■ 聖ドミニコは、裸足でヨーロッパ中を歩き回り、昼夜を問わず正しき精神を伝えた。同時に昼夜を問わず、兄弟や人々の生活上の細かい面倒をみた。起きているときも眠っているときも働くその姿には頭がさがる。そしてこのドミニコの構えをそのままお二人の先生が継承しているのだ。 ■ 田中神父は語る。「寮があるため、先生方は24時間体制で生徒と交わるのです。先生という仕事は学問から小さな生徒たちの生活の問題まで一日中かかわっています。しかし忙しいからといって、理想を忘れるようなことはありませんよ。瞬間を突き抜けて普遍的精神に身を置きながら、生徒と対話を続けています。」と。 ■ そして寅岡先生は「正岡子規が東大に野心を抱いて挑戦した時代とは、今は違う。大学も多様化し、生徒たちの進路の意識もバラエティに富んでいる。世界に広がっているドミニコ会のネットワークを活用して、海外の大学で勉強しようという生徒も今後は現れてくることでしょう。私たちの建学の精神にある世界的教養人とは、究極的には世界のどこに行っても、裸足で生き抜いていける知恵と心身をもてる人間のことを言うのです」と。 ■ 「裸足で生き抜いていける」という言葉は新鮮であった。現代の学校教育が喪失してしまったものを発見した思いがしたからだ。愛光学園には日本全国から子弟が集まってくる。卒業後の彼ら彼女たちは、近代が生んだ豊かさの背後に広がる矛盾を見事に解くリーダーとして各地で活躍することになるだろう。 |
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