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| 愛光-超越論的学習プログラム |
| 2001年06月25日 by 本間勇人(honma@netty.ne.jp) |
| ◆ 愛光の寅岡先生と博多の屋台で対話した。たまたま先生も私も福岡に来ていたことが、携帯電話でわかった。ハイテクが結ぶ屋台の出会いとはなんとも最先端的風流だ。極めてオープンな場だけれど、みんな酔っていて他人の眼差しなど気にならない。話もハイパーリンクさながらあっちこっちに飛んだ。まさに最先端的対話。 ◆ 愛光は今度の入試から共学化する。女子の寮は残念ながら今回はない。あちらこちらから女子の問い合わせが殺到しているらしい。しかし今回は残念なのだ。とはいえ、引越しまで考えている家庭もあるという。それはそうだろう。なんといっても愛光は、言うまでもなく、大学実績がよい。医学部に進む生徒も圧倒的だ。しかし、なにせゆったりとした学習環境なのだ。図書館も遅くまでやっている。今時読書が好きな子が多いのは珍しい。寮生活を中心に、互いに他者を受け入れ自分を豊かにしていく教育は本物だ。受験勉強ではなく、自分を見つめつつ他者との対話を背景に感じながら生きていく方向性を見つけられるのだ。他者とは何も友人だけではない。先生も、もちろん親も。人間だけではなく自然性や宗教性も含む。そして新たに女性性も。 ◆ 近代合理主義は、妄想蒙昧を排除し、明るい自由と平等の世界に大きく前進した。階級性が剥がれ、文化の大衆化が進み、生活世界は豊かに朗らかになった。しかし、実際にはだれにとっての近代だったのか。地球規模ではない。地球規模で近代化を進めようとすると矛盾が解決できなくなる。近代合理主義は、矛盾は全部外部性として外に排除した。しかし、グローバルな時代、その外部がなくなる。どうするのだろう。とにかく、外部を前提にした合理的で客観的な社会制度や構造。個人という主観はそのシステムをうまく利用して勝手気ままに生活できる。客観的な社会制度や構造は、もはや合理的に「思考されたモノ」で疑う余地のないものであり、「思考するコト」ではなくなった。これが近代化の進化だったわけである。 ◆ 要するに「思考されたモノ」を教育で鵜呑みにさせ、そのシステムの中で競争させる。これが近代。ちょっと簡単すぎるが。この疑う余地のないのシステムの中で子どもらしさや女性性はハンディーを背負ってきた。がしかし、時代は変わった。特に89年以降「思考されたモノ」をもう一度「思考するコト」にするダイナミックな動きが生まれた。 ◆ 思想的には19世紀末からあったのだけれど、実践に移行するには100年かかった。教育においても、社会においても、テクノロジー分野においても、環境学においても、遺伝子工学においても、今やどこでも「思考されたモノ」の検討、つまり「思考するコト」となった。「思考されたモノ」は「主語的論理」であり、「思考するコト」は「述語的論理」である。これは中村雄二郎の説。氏によると丸山真男東大派は「主語的論理」であり、西田幾多郎京大派は「述語的論理」なのだそうである。 ◆ 「主語的論理」はキーワードの定義を明確にしていく、つまり概念を構築していく合理主義的発想であり、「述語的論理」は、その定義を豊かにしていくためにいろいろなものを関連付けていきながら、気づくと定義が創造的に破壊されているなんてことがある隠喩的発想法であるのだそうだ。 ◆ 丸山にしても、西田にしても、「思考するコト」は大事にしている。ただ、丸山はそれを「思考されたモノ」に整理回収していく。一方西田は、とことん「思考するコト」を追求し、拡散していくほうに走る。そういう違いがあるに過ぎない。しかし、いつしか「思考されたモノ」と「思考するコト」は、切り離され、「思考されたモノ」は単なる暗記するための知識となり、「思考するコト」はひたすら解体の一途をたどり神秘主義に転じていった。 ◆ 戦後の公立の学校は硬直化した「主語的論理」が中心である。そこを打破しようと「総合的学習」が生まれてきたのだが、もともと「思考するコト」が封じられているので、「思考されたモノ」の並べ替えしかできない。時間が削減されて「モノ」の並べ替えしかできないのなら暗記する学力量は低下する。そりゃあ大変だとなる。 ◆ しかし、私学では建学の精神と勉強の統合をねらっているので、はじめから「思考するコト」と「思考されたモノ」の両立が図られている。特に愛光のようにミッション系の学校はそうだ。「思考されたモノ」の背景に「思考するコト」が常に存在する。近代の超克とか言う問題は実は、常にここが問題であった。 ◆ 「思考されたモノ」は客観で、「思考するコト」は主観であるというのが簡単な近代合理主義的図式だが、これだと自由を標榜する近代人は、「思考されたモノ」によってコントロールされることになるという矛盾が出てきてしまう。かといって主観というものを全面には出せない。主観は恣意に転じやすいから危ないのだと。 ◆ だから、客観と主観という二元論ではなく、そこをなんとかしようといって100年たったわけである。しかし700年も前の中世の思想を有している愛光は、そんな悩みをもともと持っていない。ことに愛光がたたえるトマス・アキナスの思想は、「思考されたモノ」と「思考するコト」を「現実態」と「可能態」として相互に関係するものとして切り離していない。トマスの重層的な存在論からすれば、この両者の対話がそのつど現実を変えていくだろうし、だからといって理念は普遍的であることに変わらないのだろう。 ◆ アリストテレスとトマス・アキナス的発想は実は量子論的な発想つまり「述語的論理」に結びつく。しかしあくまでも「主語的論理」との対話は切り離さない。今世の中で疑われている「総合的学習」は「主語的論理」という1次元での配列の組み換えが行われようとしているが、私学がすでにあると語る「総合的学習」は、「主語的論理」と「述語的論理」の対話が作り出す多次元での学習空間である。まさしくこれは「超越論的学習」なのだ。「超越論」は近代思想の解けない問題の1つであるが、私学のプログラムは実にチャレンジングである。 ◆ 寅岡先生の国語の授業では、中1では、1年間ぶっ通しで、「しろばんば」を読むそうである。中2では、半年かけて「坂の上の雲」を読むそうである。思春期も恋愛も、自己の成長や自立ということも、日本史も世界史も、政治も倫理も人生も、語り合い、レポートを書きまくり、疾風怒濤のごとき授業が過ぎていくそうである。子どもたちの可能性を現実態にしていくトマス・アキナス的授業なのだろう。聖ドミニコ会は、退廃しつつある中世教会文化を改革するための雄弁修道会だった。一方でアジアから迫り来る異端との理論闘争を、現代の大学の原型であるボローニャやパリ大学でやってのけた。そして、布教のためにヨーロッパ中を足で駆け巡った。ネットワーク型活動は、「述語的論理」だし、今のインターネットと同じ発想だ。リナックス派の若き哲学者は少し勉強不足で、修道会はみんなベネディクト派と同じで封建的だと思っている。 ◆ それはともかく、そんな伝統が、愛光の寅岡先生の国語に反映しているというのは、ドミニコ会の文化遺伝子=ミームの存在を想起させる。このミームは要するに、可能性を現実化するのに目に見えない質料を目に見える形相に変換するロゴス化、つまり対話の文化ということである。したがって、ロゴス化が続く限り、現実態は変化しうるのである。ドミニコ会は、ルールというものを現実に則して柔軟に変えるのでも有名である。聖書という至上のルールは不変であるが、この世の現実の細目ルールは変化しても構わないのである。 ◆ 来年は女子寮はないけれども、この先そのルールが変更される可能性は大いにあるわけなのだ。 |
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