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| 中村中学・高等学校 |
| by 本間勇人(honma@netty.ne.jp) |
| 1 なぜ中村学園は、21世紀型の学校なのか 中村学園の創立者は、中村清蔵である。彼は、明治時代に、銀行、倉庫、廻米問屋、味噌製造業などを営んだ事業家であり、渋沢栄一や安田善次郎(彼らも東京女学館や日本女子大、そして安田学園を創設している)など、明治を代表する政財界の人物たちとも親睦を深めている。この事実は非常に重要である。明治という時代は、近代日本の出発点である。この近代の創造に貢献した人物達の一人が中村学園の創立者であるという事実そのものが中村学園が21世紀型の学校の証拠なのである。 近代の立ち上がり当初というのは、非常に進取の気性に富んだ時代であったと想像できる。江戸から明治にかけての商人や事業家たちの気概が、近年見直されているゆえんはそこにあるのだろう。彼らの気概こそが、日本の産業を、イギリスの産業革命以降の発展と並行的に進化させきた原動力であったという説は、今では多くの人が認めるところである。 ところで、イギリスの産業革命以降の経済道徳を語るうえで、アダム・スミスの考え方は無視できない。ヘーゲルは、後にアダム・スミスの影響を受け、市民社会を「欲求の体系」と名づけた。この発想のもとは、スミスの「道徳感情論」の中にある。 食べたい、飲みたい、勉強したい、働きたくないなど様々な欲求が溢れ、それらを満たそうと大きな動きが生まれるが、その動きの中から見えざる手が作動し始め、一人一人はこれといった意図もないのに、いつのまにか社会の利益というものをおしすすめている。一見ばらばらで無思想な欲求を満たそうという動きから、おのずから生じる一個の必然性によって社会は支えられている。まさに、明治の社会とはこういう動きであったはずである。 しかし、その動きも富国強兵、殖産興業という流れの中で、転倒し始める。そして戦後経済成長の日本では、その転倒が完成する。つまり、見えないはずの必然性は、見えるようになり、様々な欲求の中から自ずから生まれてくるはずのものが、逆に欲求を規制するようになっていくのである。スミスは、「道徳感情論」の中で、政治は、市民が諸欲求を互いに満たしながら生活できる幸福を促進する傾向を持つもののみが評価できると言っている。同時に、このような傾向を持つことが、政治の唯一有用な目的であるが、目的よりも手段を高く評価する間違いを犯してしまうのも事実であると言っている。 目的と手段が逆転すると、政治は形骸化し官僚化するのは常である。この傾向の行き過ぎは、人々を幸せにしないシステムを作り出す。残念ながら官僚のもとでコントロールされている公立の学校が、この幸せにしないシステムを阻止する仕掛けを創ることができないのはやむを得ないことなのである。これを阻止するには、スミスの言った市民が諸欲求を互いに満たしながら生活できる幸福を促進する傾向を持つ統治の構造を造る必要がある。大事なことは、個々のばらばらな欲求が、自ずからひとつの必然性を生み出すような社会を維持するための統治構造である。 実は、この目的を教育によって形成しようと意図したのが、明治から戦前にかけての実業家たちである。渋沢栄一然り。安田善次郎然り。そして、中村清蔵然り。私学が、公立と違って、幸せにしないシステムを阻止する教育の場として始動し始めるのである。 この中村清蔵の精神は、伝統として学園に継承されていく。小林現理事長が大切にしている精神のひとつに「どんなに立派な鋳型でも、鋳型に入れた教育はしない」というものがある。これは、第4代校長中村三郎の言である。どんなに優れたシステムも鋳型となれば、決して人々を幸せにしない。鋳型は、自ずから生まれてくるものとしてではなく、規制として作動してしまう。そこからの自由こそが、中村学園の校風である。これは、スミスの世界観に通じるし、中村学園がイギリスのパブリック・スクールに共鳴する理由もわかるような気がする。 とにかく、21世紀型の学校とは、戦後高度経済成長を成し遂げながらも人々を幸せにしないシステム(パラドクシカルな表現ではあるが)を阻止する教育が実践されるところだろう。中村学園の教育は、まさにこの人々を幸せにしないシステムを阻止する教育である。そうであるならば、中村学園こそ、21世紀型の学校といえるのではないか。 2 中村学園の生徒は幸福である 高度経済成長を成し遂げながらも人々を幸せにしないシステムが、今の日本の社会であることは、もはや多くの人が感じていることであろう。しかし、どうやって、このシステムから逃れられるのか。それは、アダム・スミスやヘーゲルが楽観的にあるいは牧歌的に語ったように、一見ばらばらで無思想な個々の欲求を満たそうという動きから、おのずから生じる一個の必然性が生まれるようにすることである。 もちろん、ここで言う欲求とは、幸せにしないシステム内で生まれるべくコントロールされてしまっている欲求のことではない。一人一人が、自分の内側から湧き出てくるような素直な欲求のことである。こういう素直な欲求が生まれる環境が、果たして子ども達のまわりにあるかというと、マスコミ的にいうならば、画一的で管理の行き届いた公立の学校には望めない。公立を選択する場合、国民というか市民は、自己防衛しながら、子どもを通わせるしかない。しかし、それは教育どころではなく、日々権利の闘争となることは明らかである。この闘争を怠ったとき、子ども達は、近い将来、幸せにしないシステムのなかで、あたかも自己責任があるかのような錯覚をいだきながら、マネーゲームの中で労働しなければならないことになる。 やはり、教育そのものに期待をするとしたら、それは一人一人を大切にしなければサバイバルできない私学に望むしかないのである。社会がそうなってるのだから、しょうがないという前提で欲求するのではなく、素直に自分の幸せを感じる欲求をもてることが大切である。 中村学園では、そういう素直な欲求を育てることができる。学園のモットーは、「清く、直く、明るく」そして「健康第一」である。 「どんなに立派な鋳型でも、鋳型に入れた教育はしない」と語った第4代校長中村三郎は、口癖のようにこう言ったという。 「机の上から学ぶだけでは、新しい時代におくれをとる。女子教育は、もっと広い視野をもったものでなければならない。」 素直な欲求とは、実は、以上のようなモットーや精神からしか生まれないのだ。健康で素直で楽観的で、開放的な精神からしか生まれないである。 これらの精神やモットーが中村学園の教育の中に染みわたっていることは、校内で出会う生徒達の様子を見ていればわかる。中村学園で、明るく、楽しい会話と時に知的な対話をしている様子に出会うのは簡単である。それが、染みわたっている何よりの証拠だろう。 もちろん、教育の中身を見てもわかる。フルートやテニスを授業の中に取り入れている。風を心と身体に取り入れ、運動エネルギーに変換したりやメロディーを作り出したりするチャンスは、健康で素直な開放的な心身を育てる良い機会である。 読書や小論文や作文指導も木目細かい。中村校長が言う「机の上から学ぶだけ」ではいけないよというのは、何も本を読んだり、作文を書いたりしてはいけないよということではない。文字通りとっては困る。狭い視野でおさっまっている自分に気づかない状態でいるのはまずいよということであり、読書や論文作成は、中村校長にとっても、子ども達が、自分達の視野を広げていくチャンスなのである。 そして、オーストラリアやニュージーランドでの海外経験。太平洋的視野を身を持って体験するわけである。 広い視野をもつきっかけ作りが、このように沢山用意されているということは、それだけ一人ひとりの生徒が自分らしい欲求をそれぞれ生み出せるチャンスが多いということだ。自分らしい欲求を自らの内に持てたとき、人生がハッピーにならないはずがないのである。 中村学園の授業は、パンフレットにある通り「生徒個人にあわせ、楽しく身につく授業」である。こんな環境の中で学園生活を送れる中村学園の生徒達は、本当に幸福である。 3 中村学園の生徒達のボランティア精神は、国際社会や情報化社会で生かされる 中村学園のボランティア活動が活発だということは、全国的に有名である。何せ、中村学園のボランティア部と益子直美選手らの手話ソングの共同発表会までの様子がドキュメンタリータッチでテレビ放映されたぐらいである。また、手話ソングの益子選手による取材は、本の出版という段取りにまで到った。その書名は「手話でラブソングを」(同友館)である。 さて、これほどまでに脚光を浴びる中村学園のボランティアとはいかる性質のものなのだろうか。 結論先取り的に言うと「自発的な経験を通して、自分の気づかなかった問題に直面し、それをどう解決したらいいのか情報を収集し、誰とどのように協力しながら、そして共感しながら問題を解決していくかという実行力が養われる性質」のものである。 つまり、中村学園のボランティア精神は、国際理解教育だとか、情報教育だとかいわれているものの根本的な考え方や感じ方に通じているのである。 中村学園のボランティア活動は、学校全体で集団主義的に行うものではなく、ボランティア部がきっかけ作りをしながら、自発的に自然に活動の輪が広まっていくように工夫されている。「一人」の感動とモチベーションを上げる環境を造り、結果として、その影響を受けた生徒が増えていくというストイックであり本道ともいえる考え方がベースにある。 この考え方が、中村学園において即座に実践に結びつくのは、学園のモットーである「清く、直く、明るく」そして「健康第一」という理念が染み渡っているからであろう。また、「どんなに立派な鋳型でも、鋳型に入れた教育はしない」「机の上から学ぶだけでは、新しい時代におくれをとる。女子教育は、もっと広い視野をもったものでなければならない。」という第4代校長中村三郎の精神が生きているからでもあろう。 このような教育の中で育った素直で明るい生徒達の欲求は、鋳型を外して、のびのびとした活動をする源になるだろうし、広い視野をという教育は、生徒達に様々な体験の準備をすることになるだろう。多種多様な体験を通じて、生徒一人ひとりは、自分に合った問いかけを欲求するようになる。その欲求を満たそうと、自発的に情報を収集し、いろいろな人と話し合い、協力を取り付ける行動を起こすようになるのである。その行動力に感動を受けない人はいまい。影響を受けた人々の感動は、実は影響を与えた自分の存在の強烈な証しとなり、次のボランティア活動のエネルギー源となる。 実際、生徒達が月に1、2度「ボランティア通信」を発行し、参加を呼びかけている。学校の中で、自己表現の場として役割を果たしているこの通信は、自己表現がゆえに手書きである。手書きが伝える味のあるメッセージは、生徒一人ひとりの学園生活のスタイルでもある。この一人ひとりのライフスタイルを大切にするところにも、ボランティア精神が養われるチャンスを作ろうとしている先生方の配慮がうかがわれるのである。 論より証拠、この「ボランティア通信」の呼びかけに誘われて、参加した生徒の感想をひとつご披露しよう。 「正直言うと、初めは障害者の人ということで、抵抗がありました。どう接したらいいのか、何も分からずに一日が始まって、やっと仲良くなったと思ったらもうお別れで。なんだか、名残惜しいような、寂しいような、ほっとしたような、複雑な気持ちでした。 みんなとっても素直で、自分の気持ちに正直で、うらやましかったです。障害をもって生まれたというハンディはあるけれども、健常者にはない感受性の豊かさとか、優しさとか、身にしみて、すごく感じました。でも、道を歩いていて、白い目で見る人が何人もいたので、とても悲しい思いをしました。でもそれは、何日か前の自分だったと思います。今日一日で、とてもよい経験をしました。障害者の人たちのために役に立てたことも嬉しかったし、みんなからも忘れかけていた気持ちを思い起こさせてもらいました。心からありがとうと言いたいです。」 「ふれあいまつり」というボランティア活動という経験を通して、自分の変化を実感できたというより、自分と他者が一体となるイメージを身体で感じることができたという究めて大切な体験を、素直でわかりやすい言葉で表現しているのには驚かされる。これが「わかる」ということなのであろう。 こういう感想は山ほどあるのだが、ご紹介できないのが残念である。とにかく、先生方が意図しつつも、その意図をなんとか解き、生徒達の自発性を生み出そうとする創意工夫が見事に成功していることを証明する感想文であることは否めない。 こういう強烈な体験をした中村学園の生徒達は、大学受験において、一般受験ばかりではなく、AO入試や自己推薦入試という、バカロレア(フランスの卒業試験)やアヴィツア(ドイツの卒業試験)のような論文型の試験に次々と合格している。 やはり、ボランティア活動に象徴的に現れている中村学園の教育は、国際社会や情報化社会に十分に通じるし、大学という進路においてもグローバル・スタンダードに耐えうる教育がゆきわたっているといえよう。 |
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