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京北学園中学・高等学校
by 本間勇人(honma@netty.ne.jp)
京北学園公開授業に参加して― 98・9・12 ―

京北学園公開授業研究に参加した。京北学園創立100周年記念企画〈新しい教育を求めて〉の一環行事の1つである。井上円了(京北学園の創立者)がいかなる哲学者であったか、浅学の私には知る由もないが、プラトン以来の対話哲学が、京北のこの場に生きているのかと驚いた。円了は東洋哲学者の一人として世に知られているのだろうか、とにもかくにもプラトンはどちらかというと東洋系の発想の持ち主であったはずである。西洋哲学の祖ではあるが、東洋哲学の祖として本来は位置づけられてもよいのかもしれない。
 京北学園の公開授業から話しは大きく逸れたが、50分間というその瞬間に2000年以上も前のアカデメイアに連れられていった思いがした。そういえば、京北学園は男子校であったのだ。ソクラテスを囲み対話を繰り返し続けた弟子たちも皆男子であった。川合ソクラテス(公開授業主催・講師である京北教頭。昨年読売教育賞を受賞)をスーパーバイザーに多くの弟子たちが対話に挑んでいたというところか。
 実際には、5人ぐらいのグループ5つに分かれ、アドバイザーが一人加わってのグループディスカッション形式であったが、川合ソクラテスの意図をうまく分有したプラトンやクリトンのようなアドバイザーたち(共立女子第二の先生や千葉大の大学院生が協力参加していた)がコントロールすることなく自然な対話の状況を形成していた。
 授業の流れ=プログラムは、実によく計算されて構築されているのだが、ディスカッション形式なので、当事者たちはその意図を見破れない。そういう意味で、生徒たちの気持ちや思考が自然な形で表現されていた。プログラムの具体的展開については、私の筆力ではとうてい表現できない程豊かであるので、興味のある方は公開授業に参加するか川合教頭と直接お話することをお勧めする。
 ともかく、川合ソクラテスは、マルチプレイヤーで、あるときはスーパーバイザー、あるときは女の子、あるときはタンポポと変幻自在に役割を演じるので、生徒たちも見学者もぐいぐい授業の中に引き込まれていく。
 一見ばらばらなそれぞれのグループも、最終的には一体感を得る。その時見学者側も思わず手をたたく。川合ソクラテスの意図にのせられたかと気づいたときは、後の祭り。私もしっかり手をたたいていた。
 さて、公開授業の評だが、21世紀の授業はこれだというのが私の感想だ。従来の授業では個々人の勉強姿勢が重要視され、仲間意識など勉強においてどうでもよかったというのが普く意識されていたことだったのではないか。たしかに、テキストやプリントを目の前にしているのは個々の生徒であり、仲間ではない。
 しかし、本当は違う。テキストは誰が創ったのか?プリントは?授業の中における友人達の意見を誰がキャッチするのか?知識を自分の血肉にする作業は、一人でやっているようでも、かように協働作業なのである。フォアグラのように、知識を一方的に注入すればそれでよいのではない。そんなことをしたら脳味噌がフォアグラになってしまう。常に対話なのである。対話が人間の協働作業の基本である。そのことをアカデメイアという限られた浮世離れした哲学者たちの閑人閑話で終わらせるのではなく、子どもたちの知において実現しようとしているのが、京北学園の授業なのである。
 今回の公開授業で、川合ソクラテスが対話を成立させるために、3つの柱と1つの大きな実践を授業で実行した。
 最初の3つは、
(1)  対話の条件である「話し合いのルール」の習慣化。
(2) 生徒たちの感情の調整を行い、オープンな心的状況をつくる。
(3) 感情の論理的裏付けをとり、言葉で感情の交換をできるようにする。

 そして、実践の偉大なところは「たんぽぽ」という詩を素材に、上記(1)〜(3)を具体的な体験として生徒たちの身体に染みわたらせたところだ。
「たんぽぽ」という短くて一見取り扱いやすい詩で、「ぼく」と「あいつ」の関係をディスカッションさせ発表させる。その過程はスリリングだが、最終的に達成感と開放感が教室に広がるのはみごとというしかない。
 それにしても、50分間で、自己とは何か、自己と他者の関係の重要性、コミュニケーションの大切さなど川合ソクラテスは弟子たちと哲学をやってのけたのである。

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