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学校文化再生産の構造(1)

2007年5月17日
by 本間勇人

◆ 私立中高一貫校の先生方の話を聞いたり、いっしょにプログラム・アーキテクチャーしたり、テストデータ分析をしたりする中で、私学の独自の学校文化(ハビトゥスとかミームとか呼ばれている)がどのように再生産されているのか、あるいは脱構築されていくのか、少し見通しがよくなってきた。

◆ どうやら、図のように12の座標系レイヤーを組み合わせていくと、学校文化の質や教育の質というのがはっきり見えてくるのではないかという仮説ができあがった。座標系12を組み合わせるということは、1つの座標系で、最低14通りの広がりが可能なので、14の12乗通り、つまり、およそ57億通りの学校文化のクオリティが考えられるのである。しかも生徒と教師では座標の位置が異なる。生徒1人ひとりによっても、教師1人ひとりによっても違うから、57億通りどころではなく、実際にはあまりに複雑系である。

◆ この【学校文化のレイヤー】チャートは、学校以外の組織にも応用ができるので、組織文化の現状分析、文化の脱構築など全般に渡って活用できるだろう。いずれにしてもこれによって、学校や組織の文化を選択するときの本格的視点の束を生成することができると思う。このおよそ57億通りの―実際には無限なのだが―【文化のレイヤーチャート(以降CLC)】に従って、様々な学校の文化再生産あるいは脱構築を見ていきたい。

◆ たとえば、生徒像の了解を、教師が誤っている学校がある。そのような学校の生徒たちの多くは、他者に対しシャイだし、斜に構える傾向がある。さしあたって、座標系@と座標系Kで生徒像を考えてみよう。現在の生徒は多層的な像を結んでいるが、座標系@の第4象限に限定して考える教師が多い学校の場合、座標系Kにおいても第4象限に限定した価値観を有した教師が多くなる。

◆ 私立学校の教育理念では、文言は違っても、man for othersのベクトルを共有している。もし現実においてこの理念が共有されているならば、生徒像の了解は座標系@において、少なくとも第1象限と第4象限の両方に目配りするはずである。生徒たちのヒューマニティは生徒同士、先輩後輩、教師と生徒などの他者との関係において多様で多層なロールプレイをしながら豊かになっていくものだからだ。

◆ そしてそのような成長は座標系Kの第1象限・第2象限にわたる価値観を持った教師によって見守られる。教育理念は普遍的な倫理を包摂しているからである。ところが教育理念に関して文言と現実との間でギャップがある場合、普遍的倫理ではなく、その教師が思い込んでいる個人的判断基準としての非倫理的な価値観がベースとなって生徒を把捉する。

◆ 常に独善的で抑圧的な言動が生徒の生活を支配する。そのような学校では、生徒たちのヒューマニティとキャラクターはかなり歪んだものとなる。自分たちの価値観やキャラクターとは共鳴しないレッテル張りが教師から成されるのである。

◆ そのような学校のコミュニケーションは座標系Bにおいては第4象限のいびつなスタイルが支配している。生徒の存在は、座標系Hの第3象限に限定された理解がなされる。

◆ 教師達の言動は、常に見守るとか目配りするとかという倫理的なベースは欠落しているから、いつの間にか揚げ足をとったり、ネガティブなアドバイスをしたりということになる。生徒たちのコミュニケーションは教師と呼応せざるを得ないから、必然的に抑圧的でただただ論理的=事務的なスタイルになる。

◆ 教師が自分たちをどう見るかだけが重要事項になり、なるべくならネガティブな小言は聞きたくないという座標系Eの第3象限に押し込められた行動をとるようになる。座標系Cの第1象限・第2象限・第3象限における感情表現は屈折したものになる。常に他者が自分をどうみるかというロールしか演じなくなる。だからシャイだし、斜に構える行動を投影するのだ。座標系Kの第4象限の枠内でしか価値判断=選択判断ができなくなる。私立学校の有する公共的・普遍的正義に基づくリベラリズムは育たなくなる。

◆ これでは、他者に対し無関心になり共感や豊かな感情は育たない。生徒達自身が自らマルチロールプレイの中から教師に合わせたロールを選択し、自分は自分の普遍的で豊かなヒューマニティを自足していくというのであればよいが、そもそもそういう生徒は初めから、そのような教師がたくさんいるような学校は選択しないだろう。

◆ しかし、この視点は重要なのだ。いじめが頻繁に起こり、起こったとしても気づかない学校は、そもそも教師が生徒像を完全に誤っているために、気づいているが気づかないロールプレイをしているのではなく、もともと気づかないのである。だからその公立学校を選択行為ができずに通わなければならなかった生徒の中には、自らの可能性のあるロールプレイから教師に合わせるロールを選択するサバイバルスキルを持った生徒が現実には存在するはずなのだ。そしてそのサバイバルスキルを有していない生徒はいじめのターゲットになる可能性が大なのである。

◆ ところでさらにやっかいなのは、団塊ジュニア以降の生徒の像は、徐々に、ヒューマニティ―ロールプレイ―キャラクターという三項で捉えられるだけでは足りないという事態が生まれていることである。

◆ アニメやマンガにおいて、手塚治虫のような物語中心主義的な価値観が揺らいだ世代は、キャラ/キャラクターという人物像を自分の中に持ち込むようになったと言われている。ロールプレイとしてのロールではなく、キャラとしてのロールを演じている生徒は、一見ヒューマニティは関係がない。しかし、外から見ていると、あたかもロールプレイ/ヒューマニティ,キャラクターを演じているかのように思い、教師は焦ってしまう場合もある。しかし、よくよく対話をしていくとそれは単純にキャラを楽しんでいるだけなのである。

◆ しかし、これは生徒も教師も互いの理解を混乱させる原因にもなる。相互の理解が得られなくなるという状態に発展する場合もある。ここらへんのリスクをきちんと了解している私学がある。中学入試で、新しい文学を素材として選んでいる学校の教師は、そこまで生徒像の了解の射程を広げ、日々探究している。座標系@のすべての象限の情報を生徒との対話を通し、さらに生徒が読んでいるマンガやアニメの文化の捉え方の切り口も日々考え続けているのである。



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