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| 私立中高一貫校の新しい挑戦 |
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2007年5月11日 |
| ◆ 北欧フィンランドが発信する音楽イベントが、“Finland Fest 2007”として、5月25日(金)東京・LIQUIDROOM ebisuにて開催されるようだ。このイベントはすでに2005年、2006年と2年連続で開催されてきたという。
◆ フィンランドといえば、OECD/PISAで、学びにおいて国際ランキング上位の常連。また国際競争力などグローバリゼーションでもいつも上位にランキング入りしている。IMD(International Institute for Management Development:国際経営開発研究所)は、毎年国際競争力ランキングを公表しているが、それによると今年フィンランドはランキングを17位(昨年は10位)と下げたが、日本の上位にはいる。日本は24位(昨年は16位)で、ついに中国(今年は15位、昨年は18位)に逆転された。 ◆ この国際競争ランキングは、IMDが世界51カ国及び9地域を対象に、「マクロ経済」「政府の効率性」「ビジネスの効率性」「インフラ整備」の4分野314項目について、統計情報や聞き取り調査の結果を集計し、項目ごとのランキングを「世界競争力年鑑(IMD World Competitiveness Yearbook)」として毎年作成・公表しているもの。日常の新聞などの情報カテゴリーのあらゆる情報を集めた、かなり総合的な視野というか大局的な情報収集・分析をしているもので、軽視できない。 ◆ フィンランドといえば、もう1つ思い出すのは、リーナス・トーバルズである。Linuxの開発者である。トーバルズはヘルシンキ出身のプログラマーであるが、実に横断的な現代思想家でもある。今でいうクリエイティブ・クラスの人材。 ◆ なぜフィンランドの例を今さら出すのかというと、人口600万人に満たない小国でありながら、国際学習到達度ランキングや国際競争力ランキングで上位にいるからという理由ではない。グローバルランキングが上位にいる国というのは、お金だけ稼いでいればよいというのではなく、芸術や文化、思想でも世界につながる、あるいは世界に影響を与えるパワーを持っているという1つの典型として取り上げたかったからだ。 ◆ そして日本はといえば、欧米を席巻するような音楽家、もちろんクラッシック界ではいるのだろうが、新しい分野ではどうだろうか。私が知らないだけかもしれないが・・・。現代思想においてはどうだろう。ドイツの現代思想、フランスの現代思想、英米の現代思想、周縁の現代思想を整理する学者は日本にはいるが、かつての西田幾多郎ほどの勢力をもった現代思想家(19世紀末以降の思想をプロデュースした思想家は開成を中心とする今でいう私立中高一貫校出身者だった)は現代日本にはいないのではないだろうか。 ◆ ここでいう現代思想とは現代哲学とは全く違う。哲学、文化人類学、社会学、歴史、政治経済、IT、バイオテクノロジーなどの最先端技術などすべてを包括してコンセプトメイクをする知のプロデュースのことを言う。 ◆ コンテンポラリーアートの中には、ニューヨークで活躍している照屋勇賢がいる。今年はオーストラリア、沖縄、横浜、ドイツのギャラリーや美術館で作品を発表しているが、まだ現れてはいないが、これから出てくるであろう若い日本の現代思想家の登場の先駆け的な芸術空間を創造している。水の問題や戦争の問題、環境問題を、世界と日本の具体的な生活に結び付けつつ普遍化している。リアルでありリアル以上である関係性を芸術空間の中に創っている。あるモノとしての作品ではないのである。また一方的に芸術家が作ったものでもない。 ◆ 作品は創り創られる関係に位置する。作品はリアルを開き、リアル以上の関係を世界につなぐ。そういうトリガーなのだ。もちろん、なんでもトリガーになるのではない。そのような関係を拓くには高感度である必然性の生成がポイントだ。それが芸術の成せる業なのである。 ◆ ただ、ここで問題なのは、照屋勇賢の活動拠点はニューヨークであり、世界であり、日本ではないという点だ。日本はまだ通過点。つまり日本ではこのようなコンテンポラリーアーティストは市場経済の中で生きていけない。文化が市場経済になじむのが欧米のグローバル・スタンダードなのだ。 ◆ 日本はオークションという市場で作品を売り買いすることはするが、コンテンポラリーアーティストが育つ環境はまだ作っていない。同様に現代思想家も誕生しづらい環境である。それゆえ、国際競争力やPISAなどのランキングがどんどん下がっていく。 ◆ 20世紀社会で日本が右肩上がりで来れたのは、経済戦略の前に、19世紀末以降のジャパノロジーを支える日本文化や日本の芸術・思想があったからだ。しかし21世紀の新しい時代のビジョンを生成する日本の現代文化、現代芸術・思想がない今、どんなに経済戦略を企画し、実行しようとも浮上することはない。 ◆ 世界に通用するとは、世界の人々と共有・共感できる≪言説≫や≪コンセプト(概念)≫を創造できるということである。アニメ的リアリズムが、えっと思わせる意外性があるのは、コスプレで世界中の人々が共通のイメージを創れたからだ。一瞬これは日本の新しい文化であるとマスコミも騒いでしまうほど。でも結局ディズニーの戦略に便乗しているだけだということに気づく。経済効果はあるが、これが文化・芸術になるには思想が必要だ。 ◆ 実はここの分野において独自の現代思想が芽生えている。アニメや広告の市場情勢を文化として、思想として、パラダイム転換の表層として構築しようという若手現代思想家が育っている。彼らは世界に影響を与える力を発揮するだろう。そして彼らは、やはり京都学派のときと同じように、私立・国立中高一貫校出身者なのである。 ◆ なぜそうなるのか、それは私立・国立中高一貫校が戦前の教養教育を乗り越える新しいリベラルアーツ構築に挑戦しているからだ。戦前の教養主義は、19世紀末のジャポノロジーや京都学派の思想を醸成した学びの拠点。麻布、海城、逗子開成、共立女子、東京女子学園、駒東、慶應普通部、かえつ有明、宝仙理数インター、白梅学園清修、小野学園などが挑戦している「新しい教養」「公正を基盤としたリベラリズム」「土曜講座」「葛藤を昇華する表現」「知の構造化」「フラットで上質の知的対話」「思考実験」「言語と科学の融合」「数学の横断知」「サポーティブ・バンド」を育成するプログラム創出の挑戦は、村上隆や照屋勇賢といった21世紀のビジョンを投げかける日本のそして世界につながる芸術を生成する現代思想を生み出す挑戦なのである。 ◆ 上記の中に鴎友学園女子や女子聖学院、湘南白百合や聖光学院がはいっていない。それはなぜか?プロテスタントの学校は、それぞれ独自のプロテスタンティズムがすでにあるし、カトリックの学校はドミニコ会のトマス・アキナスの系譜であるトミズムとの独自の対決(イエズス会の学校は特にそうである。スアレスはトマス・アキナスとどう対決したのだろうか?私はそこまではわからない)があり、すでに欧米のリベラルアーツを有している。つまり、すでに欧米現代思想が通奏低音の響きを出し続けているのである。プロテスタントにしてもカトリックにしてもキリスト教学校は常に自分の学校の振り返りのプロセスが挑戦なのである。 ◆ 私立中高一貫校を公立教育の制度的対立項として語る時代(この発想は20世紀モダニズム)から現代思想を生み出すリベラルアーツの文化資本再生のハビトゥスとしてとらえるジャーナリストも出てきた。文化・芸術・思想というトータルな知の拠点として教育市場が語り始めているのではないか。かつて河合塾(河合塾が見いだしサポートした思想家こそ若手現代思想家の暗黙知・彼の選集はフランスの日本学研究所に所蔵されている)もそこに挑戦したように、学習塾も私立中高一貫校をそのように見る視点を持つことになるだろう。文化・芸術・思想なき塾のM&A再編成がその動きを加速するはずだ。日本の市場がグローバルランキングを意識すればの話であるが。 |
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