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| 2007年中学受験が「見える化」したコト |
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2007年2月26日 |
| ◆ 2007年首都圏中学受験生の数は過去最高であると騒がれている。これは首都圏以外の各地でも同時現象となっているだろう。その理油は、「いじめ」と「学力低下」という公立学校の教育の劣化に不安を抱いた個人消費者が、自分の子どものために、自ら決定をして、私立・国立・公立中高一貫校を選んだからだと言われている。
◆ この見解に間違いはないだろうが、注視したいところは、この個人消費者の抱く不安は、なんとなくどこかがというものではなく、ある出来事が目の前に迫っているが、あまりに目の前に在るために、逆に全貌が見えないという点だ。 ◆ 昨年教育再生会議が開催される直前、「未履修問題」が日本中をかけめぐった。教育再生会議が開催されている最中に、「いじめ」問題が凄惨な事件を生み出していた。その間にバタバタと「教育基本法」が改正された。教育再生会議では、指導力不足の教師や塾などに責任転嫁する排除と禁止というおよそ思想・表現の自由、職業・営業の自由という人類の基本的人権や経済自由権を無視する発言が横行した。その発想を象徴したのが女性に対するあの大臣の言動である。 ◆ 「学力低下」や「いじめ」に関しては極めて複雑な事象だが、本質的には互いの自由を尊重するコミュニケーション行為が行われていないということなのである。フラットなコミュニケーションが行われない限り、そこには常に権力行為が発動する。子どもと子どもの間ですらそうなのだ。しかしこの権力関係は、彼らが自発的に生んでいるのではなく、社会構造的な問題なのである。しかし、それを自己責任の名において、心理的に目に見えなくしている。 ◆ 権力者が社会学より心理学を好むのは、明らかにしつつ納得という自己隠蔽を完成させるためなのかもしれない。だから、自由主義社会に対する反動的な発言が政治家から放たれてもその危うさに気づかない。特に中学受験を体験できる層は、排除される側には身を置いていない場合が多いので、おかしな言動が横行しているが、自己決定で場を私立・国立・公立中高一貫校を居場所として確保できるから、大騒ぎしないだけである。だから中学受験生の数が増えるのである。 ◆ しかし、女性は日本では最も虐げられているグループだ。だからおかしな発言や発想に対して敏感なアンテナを持っているのである。大臣に対する辞表を攻め寄るまでの言動を、揚げ足を取っているだとかしつこいのではないかという余裕をかませられる層は、中立ではなく、排除する側の予備軍なのだ。 ◆ したがって、安倍政権のいう「美しい国」は、現行の日本国憲法を保守する国ではなく、自由主義社会に権力者の介入優位機能を挿入した新たな憲法を推進する国のことを示唆しているのである。 ◆ だから教育基本法改正の次は「学校教育法」「地方教育行政法」の改正を行うとしているのである。その中には教育委員会が、私立学校の指導をする趣旨の条文を設けようなどという動きもある。こうなってくると、私立学校への介入を認めないという「私立学校法」の第5条が危うい。 ◆ 結局、戦後初めて、ようやく国家の権力者が本音を言い始めたというのがこの中学受験生数増の現象を生んだ理由なのである。まだまだこの本音はまさか実現しないだろうぐらいの不安がゆえに、居場所をシフトするだけの動きしか生まれていないが、やがて言論という場で思い切り語られる場が増えてくるだろう。 ◆ しかし、個人消費者が大言壮語的なクレイムを、自由民権運動のように放つわけではない。闘い方は相当イメージが違うだろう。特に戦後の国家権力は巧妙である。あらゆる小さな生活に忍び込んでいる。その決定的な生活領域が「教育圏」である。文部科学省が今年実施する「全国学力調査」。これ事態は問題がない。しかし、問題の中に「学力」を規定する、つまり考える自由を規制する問題を忍び込ませるのである。そんなことは個人消費者はよくわらない。 ◆ 普通は、基礎力と応用力のうち基礎力をまずチェックしますという話を鵜呑みにするしかないだろう。そして一段と巧妙なのは、OECD/PISA(国際学習到達度調査)の考え方を意識して作っていますよという文部科学省側のパフォーマンス。一般個人消費者は、なんだか世界標準のテストで、日本の子ども達は読解力なんかでランクが下がったみたいだから、それはいいことではないかと巧みに操作されてしまうのである。 ◆ ところがOECD/PISAの問題とつくり方や発想部分に共通点を持っていて、なおかつはるかに超えて創造的才能を開発する問題は、中学入試問題なのである。この点をマスコミ関係者や教育ライターに話をしても、ピンとくる見識者はわずかであったが、実際の入試問題を見せて語り合ったら、こりゃあ大変だということになった。 ◆ なぜ今までこういう話にならなかったかというと、それは難問とは何かという視点、つまり学歴社会を象徴するような視点で問題をマスコミが選んできたからだし、一方で学力低下論の延長線上で問題を捉えてきたので、計算とか漢字にばかりに目がいくように誘導してきた学者とマスコミが共謀していたからである。 ◆ しかしながら、自分ではそこまで気づかない個人消費者の台頭は、マスコミに勇気を与える。というより、個人消費者の中にマスコミで仕事をしている層がいて、その層が中学受験の消費者にもなっているのだから、時代が違ってきたと、何かが違うと個人消費者でありマスコミ人である彼らは、すぐに気づく。 ◆ やっと国家権力におもねって記事を編集する必要がない時代がやってきたのだと。もちろん、今までだって具体的に政財界人におもねって編集をしてきたわけではない。今までは日本は不思議な隠れ社会主義的福祉大国で、補助金国家だったわけだから、個人消費者という概念がリアルには存在してこなかった。一般消費者も日本国家(日米同盟をベースにした)を「よらば大樹」にしてきたのだから、多様な感性や嗜好があったわけではない。だから日本国内でマスコミは一般顧客のために書くと必然的に国家権力におもねる内容が編集されてきたのである。 ◆ しかし、今や政低経高である。個人消費者は好き勝手なことを嗜好/思考する。政府や官僚はこれはコントロールできない、大変だということになる。しかし、インターネット世界をゲットできないように、個人消費者の思いをコントロールすることは不可能である。個人消費者はファシズムをもっとも嫌悪する嗜好性を持っている。まさに天の声であり、それを編集するのが本来のマスコミの使命だ。 ◆ それはともかく、だから、しめつけが厳しくなると、凄惨な事件がたくさん起こる。そのたびに、そうなる前に国がなんとかしろではなく、横の連帯が必要なのだと思う。公立学校の弱点は、金太郎飴であるということだ。コミュニティとして単一なので、どこにシフトしても同構造で、1つの学校で居場所がない場合、どうにもならない。 ◆ 多様なコミュニティの建設こそが重要であり、その点で私学は先行的に活動を行っている。そして今や、御三家に合格した生徒が、まだ偏差値もそれほど高くないが将来有望であると判断して、御三家を蹴って、新設校を選ぶなどという自己決定がなされる時代だ。 ◆ ただ、ここで問題なのは、個人消費者は、「人に迷惑をかけなければ何をやってもよい ◆ 結局ほとんどの場合は「人に迷惑をかけなければ」というつもりだったんですがということになり、その迷惑の犠牲者がいつも存在するということになるのである。だから私学は、ことのほか教育理念や建学の精神にこだわるのである。そこには自分の幸せのために他者がサポートしてくるように、あなたも他者にそうしなさいという黄金律(マタイ12-7)の理想が存在している。国連はこの黄金律(ゴールデン・ルール)は、キリスト教を超えて、すべての宗教、民族に共通の理念だと認めている。ミッションスクールであってもなくても、これを普遍原理としているのが私立学校である。 ◆ 公立学校は本来普遍原理であり、憲法の全文でも是としているこの原理を、宗教教育は公立学校ではやらないという条文を持ち出して、うまくそこをすり抜けてしまう。ひたすら「人に迷惑をかけなければ」という道徳原理で対応しようとする。そしていつのまにか「いじめ」という出来事自体が迷惑だとばかりフタをする。いじめる側もいじめられる側も迷惑なんだから、そんなことはやってはいけないという道徳原理で済まそうとする。 ◆ 権力とは普遍原理を忌み嫌う力である。道徳原理は普遍原理に到達するプロセスにすぎないと考えるか、普遍原理を道徳原理に擦りかえようとするかは、全く違う力の働きである。前者には「法の支配」という言葉が当てはまり、後者には「法治主義」という言葉が当てはまるだろう。戦後の教育基本法は、前者の立場で、改正された教育基本法は後者の立場である。 ◆ 教育の領域では、私は、前者を≪私学の系譜≫と呼び、後者を≪官学の系譜≫と呼んでいる。似て非なるものの相克。これが今表面化しつつある事態だ。だが、個人消費者は≪自由・平等・博愛≫を選択するに違いないと信じている。 |
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