![]() |
|
| 中高一貫校の時代性【3】 |
|
2006年3月13日 |
| ◆ 東京大学大学院教育学研究科「基礎学力研究センター」が「21世紀COEプログラム」の成果として「日本の教育と基礎学力」(明石書店2006年2月)を出版した。東大の教育学の権威を中心とする教授陣が論じるとりあえず現状で最高の水準の日本国内における教育研究論文集である。ただし私の尊敬する2人の東大の教授は執筆していないが。
◆ それはともかく、いずれも「産業主義社会から知識社会にシフトする」日本社会において、教育が歪み立ち遅れていることを指摘している。「歪み」の象徴的な分析は、「格差」であり、「立ち遅れ」を示唆する分析は「北欧諸国で実施されているような新しい学びの回避」という指摘だろう。 ◆ 佐藤学さんの分析によれば、日本の教育における学びの課題は、@「学力低下」より「学力格差の拡大」のほうが深刻。A学力低下は「『読み書き計算』という低レベルの知識や技能において生じているのではなく、創造的な探究や思考力及び表現力において生じている。」B日本の子どもの学力の危機は「ランキング」の低下よりも「学びからの逃走」にある。C子どもの「学力低下」よりもおとなの「教養の解体」のほうが深刻。D今日の学力問題は「量」の問題よりも「質」の問題である。E教師たちの専門家としての力量の劣化が起こり、教職の公共的使命の喪失が起こっている。 ◆ このように見ていくと非の打ち所がないかのようだ。しかし、少し考えてみよう。佐藤さんの分析視点は、これからシフトする「知識社会」からの視点ではなく、従来の「産業主義社会」からの視点なのである。 ◆ 「学力格差の拡大」は「知識社会」においては当然起こりうる。学力の格差を無くすのではなく、それを肯定した上で、新しい公平な知識社会を構築するというのが見識というものではないだろうか。 ◆ 「読み書き計算」を「低レベルの知識・技能」と評価しているが、「読み書き計算」=「創造的な探究」という方程式に変換するのが「知識社会」であり、セパレートしてしまうのは「産業主義社会」である。 ◆ 「学びからの逃走」とは「産業主義社会」を支える学びからの逃走であり、逃走先は「知識社会」を支える学びであり、大いに結構なのではないか。 ◆ おとなの「教養の解体」も大いに結構だ。というのも「教養」とは「産業主義社会」を支える教育の権威を言い表す言説であり、それから解放されることこそ重要ではないだろうか。 ◆ 「量」より「質」とは「産業主義社会」の経費節減的な品質管理で使用する考え方である。「知識社会」では莫大な「量」を「質」が生み出すという無限志向になるはずだ。 ◆ 教師の専門性や公共的使命などというものは「産業主義社会」システムでしか通用しない。「知識社会」にあっては誰でもがマルチな専門性を脱技能的に獲得できるのであり、公共的使命は、市民すべてにシェアされるはずで、教師だからその使命を負うなどという高ストレス組織など必要ないのである。 ◆ 以上のように佐藤さんは未来の社会を予想していながら、現状擁護の分析をしていることになる。「とりあえず現状で最高の水準の日本国内における教育研究論文集」と先に述べたが、「とりあえず」と条件付で語ったのはそういう理由である。決定的なのは公立と私立の対立構造を、大衆とエリートという構図で認識しているところである。むしろそれは公立の中で起こっているということを見落としている。公立の中学と公立の中高一貫校との間における「格差問題」である。「産業主義社会」に留まっていたいという牧歌的な鎖国的発想が、鎖国的密室的精神性の中で抑圧的構造を造ってしまうのである。私立中高一貫校は、確かにリーダーシップを重視しているため、エリート教育をしているのであるが、それは公立でいうエリート教育とは似て非なる教育なのである。もちろんそうでない私学もあるが。 ◆ W.ジェイムズではないが、プラグマティズム的に言うと、真理は私たちの語る言葉の中にある。同じエリートという言葉を使ってもそのコンテクストは違うのである。どのようなコンテクストを動員する言葉を語っているのか、それを見破る知性こそ「知識社会」で求められる。「産業主義社会」においても実は哲学なき「知識」は重視されてきた。だから「産業主義社会」と「知識社会」という対概念の表現は不適切である。「知識伝達社会」と「知識創造社会」という対概念を創る必要があるのだ。公立の中高一貫校と私立中高一貫校の背景にある社会観の違いも適切に表現できる。中高一貫校の時代性とは、明確にこの概念の違いを映し出すことを示唆しているのである。 |
| 私立中高一貫校研究の目次へ |