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| 夏のビジネス各誌が掲載する「学習の仕方」は学校のケースとは違う?(1) |
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2005年8月23日 |
| ◆ 夏のビジネス誌のテーマは、「学び方」「リーダーシップ論」が多い。夏休みは、学校でも職場でも、サマー・キャンプや研修という学びのシーズンだし、一芸体験の時期でもある。当然、体験の中で学び方やリーダーシップ論の話題は頻出ということになるだろう。
◆ 郵政民営化は世を騒然とさせているが、実は学校民営化の話題も細々ながら続いている。一般には、民営化という言葉が市場化という言葉に置き換わっているから、それほどピンとこないかもしれない。ともあれ、そういうコンテクストがあるから、企業がやっていることをそのまま教育現場に持ち込もうという教育コンサルタント・ビジネスが大流行でもある。 ◆ それがよいかどうかは、学校側が選択することなので、当否はともかく、企業の考える「学習の仕方」や「リーダー論」とはどういうものなのか一通り見ておくことは重要だろう。もっとも、この間このような話を大企業の偉い方としていたら、「一般論としてはそれでよいのかもしらんが、企業がもしそんなマニュアルを信じていたら潰れてしまうだろうなあ。一般論は創造的ではないからね」と一笑に付された。 ◆ 企業でさえそのまま使わないマニュアル、たとえば顧客満足のマニュアルなどをそのまま教育現場で使おうとするのだから、さらに困ったものなのだが、確認ぐらいはしておいてもよいだろう。 ◆ まず、「日経ビジネスAssocie」(2005・09・06)。このアソシエでは、「仕事をはかどらせ、気持を楽にさせる『5つの思考法』を紹介」している。まずそれぞれ何に役立つのか目的別に分類しているので、分類表を作ってみよう。
◆ 1つひとつは、あまり説明がいらないと思うので、簡単に定義づけみたいなセンテンスを抜き出しておこう。ブレイクスルー思考=「『何のために?』を繰り返すと物の本質が見える。本質に立ち戻ると発想も広がりやすい。本質を論理的につかむテクニックがブレイクスルー思考」。 ◆ 帰納思考=「多くの情報を収集し、さらにデータまで集めて、・・・関連性を理解しながら、共通項でグルーピングして、それを要約する・・・。この作業を繰り返すことで、集めた情報を一言でまとめることができる。」「現象から本質的問題にたどり着くまでの思考法」。 ◆ 結論思考=「実際に実行するかは別として、仮説でいいから常にすぐさま答えを弾き出そうする思考法。この結論思考の対極にあるのが、完璧な答えが出せるまでとにかく情報を収集しようという、いわば情報思考」。 ◆ マルチタスク思考=「同時に複数の仕事を、混乱なくこなす時に求められる物事の考え方」「複数の部下や会社に仕事を振って管理するというマルチタスクは、まさにコックピットモデルと同じ。どうなれば振った仕事が完了したことになるのかという定義をあらかじめ明確にし、予定通りに完了できない時は直ちに警告が発される仕組みを作っておけば、パイロットと同じく平常時は何もしなくていいわけだ。これなら多くの部下や会社の管理も可能になる」。 ◆ 負けない思考=「イチかバチかの勝負はしない。自分の強みを磨くだけではなく、相手の強みは何かを徹底的に分析し、そのうえで相手に主導権を握られるという最悪の場面を想定する。言い換えれば、相手の土俵で勝負してもそれに耐え、わずかでも相手を上回る。最終的には僅差でも、しぶとく勝利をたぐり寄せる」。 ◆ これらは、1つひとつはなかなかの思考方法である。しかし、教育の現場ではこのままではストレートに使えない。ブレイクスルー思考は、企業ではやはり何のためにという目的的一元論という意識が強い。教育の世界では、きっかけから様々な関係を結んでいくことが重要。目的だけではなく、具体化、抽象化、反対事例、理由、現象としての課題、実存としての問題などなど関数的な関係を見出していく。そのうえで目的がやっとみえてくる。こういうブレイクスルー思考は教育では創造的才能開発という側面では有効である。一見無駄を重視するのだが。 ◆ 帰納思考と結論思考はセットで活用する必要がある。どちらか片方では、実践的ではない。シミュレーション思考として2つを1つに統合した方がよいだろう。マルチタスク思考をコックピットモデルで考えているところに教育ではそのままストレートに使えない。コックピットはある意味完成された世界。教育は常に未完成の世界から出発するのだ。 ◆ 負けない思考は、教育では全く使えない。日本の入学試験のような制度では使える。これはおもしろい。やはり教育と日本の入学試験はまったく世界が違う出来事であるというのがここでわかる。教育は支援し合う思考でなければならない。フィンランドや欧米のキャリア・アップ制度は基本的には、市民社会や民主的国家を互いにサポートしあいながらどのように幸せに暮らすかが前提になっている。勝ち負けの次元ではない。教育はスポーツではない。もう少し幅広いのに、スポーツや企業の世界という目的的な世界に無理強いして押し込めようというのは合理性に欠く。教育は手段ではないのである。 ◆ 教育における学習、そして人生の道を歩む学習は、目的が初めにあるのではない。何が実存としての目的なのか、フィールドを、インターネット社会を、文化的世界を、科学的世界を調べながら、対話しながら、議論しながら、試行錯誤しながら、情報を取捨選択して、情報の再編集、デザインをし、提案を世の中にプレゼンし、批判され、再び編集して自分と他者、社会、自然、宇宙、精神の関係をとどまることなく豊かにしつづけていく過程でやっと見つかるのである。そういう学習が教育のなかで行われるが、ビジネスではそんなことはできない。常に目先の目的のための学びの方法で充分なのだ。それが効率がよく、合理的で、予見可能性があり、計算可能だというのが企業的なセンスである。 ◆ どちらがよいのか?どちらもよいのである。ただ、違うという認識や意識を無視して、乱暴にも同じであるとして、そのまま企業センスを教育に持ち込むのは、少し違うだろうということである。 ◆ もっとも教育の学び≧企業の学びであれば、企業の学びは大いに参考になるが、実際には教育の学び≦企業の学びということがしばしばで、そういう場合は、やはり企業のセンスを導入し、一度矮小化されてしまっている教育の似非学びを崩したほうがよいのかもしれない。 ◆ それに成功する企業は、実は目先の目的と遠い目的のダイナミックなDNAの軌跡を突き進む。結局本物の企業=本物の教育≧短期で消える企業=後退する教育という関係なのだろう。 |
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