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| 私立中高一貫校がグローバル・スタンダードを内包している理由 |
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2005年4月11日 |
| ◆ ここのところローマ法王ヨハネ・パウロ2世の葬儀が報道されていた。テレビのキャスターなどは葬儀のためバチカンに訪れた数が200万人にものぼる事実にその驚きを素直に表明していた。しかし、長崎や東京カテドラルをはじめとする日本中のいや世界中のローカル・カトリック教会で、法王との別れを祈るミサが行われたというほうがすごい。
◆ 世界のカトリック信者はおよそ10億人だからだ。"The New York Times ALMANAC 2005"によると、キリスト教全体では約20億人、イスラム教は約13億人、仏教約3億5千万人、ユダヤ教約1500万人。カトリック信者は世界の人口の17%を占めている。それが世界中で祈ったというのは、ある意味、衝撃的出来事である。 ◆ さて、これと私立中高一貫校がどのように関係するのか。首都圏の私立中高一貫校のミッション別分布を調べてみると、ミッション系の私学は30%弱ではないかということになる(http://eri.netty.ne.jp/data/mission.htm)が、ミッション校ではなくても、創設者がキリスト教や仏教、儒教などに影響を受けて、独自の思想を建学の精神にしているところがほとんどである。私立学校のそのほとんどが何らかの宗教を教育理念に溶け込ましていると言っても過言ではない。 ◆ 東京女学館などはある意味儒教的でプロテスタント的である。ルーツから言って日本女子もそうだろう。開成はすべての宗教を超越するような合理的で自己矛盾解決型の西田幾多郎的な背景もちらつく。京都学派のプロデューサーは開成学園出身だったと言われているほどだ。麻布は、プロテスタント的要素がはっきりしている。なんと言っても創設者江原素六はプロテスタント的背景を持った北海道の酪農者たちにアメリカ手法の酪農の影響を与えているほどだ。中村中は、有名なカトリック神学者が長い間経営していた期間がある。 ◆ 渋谷教育学園グループも実はそうだ。アメリカ的なビジネス発想と麻布的な発想が見え隠れするということはそういうことなのだ。桐朋もキリスト教的哲学の影響をそのルーツをたどると受けている。江戸川学園取手は儒教の要素があるはずだ。 ◆ さて、私立中高一貫校の建学の精神や教育理念に宗教的思想が横たわっているということは何を意味するのだろうか。それは6年間の教育の中で≪言葉を巡る問題解決≫をいつも一貫して考える環境に置かれているということである。≪言葉を巡る問題解決≫とは人間のまわりに生まれ出ずるあらゆる矛盾は≪言葉≫でしか解決ができないということである。 ◆ あるカトリック学校のシスターは、生徒たちにあらゆるチャンスで、聖書の話をする。生徒たちに人気のあるキリストのたとえ話は、タレントの話と放蕩息子の話のようだ。常識では気づかないようなパラドックスがそこには横たわっている。それをどう解決するか。みんながキリスト教を信じればそこは簡単に解決するというのではどうやらない。同じキリスト教の中でも矛盾解決の方法は違うのである。その闘争は血を流す凄惨で長大な歴史を持っているぐらいだ。まして宗教が違えば、問題の解決など途方にくれる。しかし、ニューヨークの9.11はまさにそこが問題なのだ。それはしかし、≪言葉≫で解決するしかないのである。 ◆ 東京私立中学高等学校協会は、学力低下の問題解決の重要性を考える一方で、もっと幅広い奥行きのある基礎学力の本質的な議論と研究を進めていると聞き及ぶ。そして「ことば力」というところをもっと深く探求しようというところに行きついているようだ。同協会の東京私学教育研究所所長堀先生が中心となって、幾校かの先生方と「基礎学力調査研究会」を立ち上げて行っているようだ。詳しくはこの春に発刊される「所報」で発表されるということだから、楽しみである。 ◆ あるプロテスタントの女子校の校長先生は、毎朝の礼拝でやはり聖書のたとえ話というかメタファー解題を生徒に語りかけているが、あるとき大江健三郎氏もそのエッセイで引用している部分を紹介した。「キリストは、ご自分の体によって、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き、かずかずの規定を伴うおきてから成る律法を無効にし、二つのものをご自分に結びつけることによって、1人の『新しい人』に造りあげ、平和を実現しました。すなわち、キリストは十字架によって、互いに離れていた二つのものを一つの体とし、神と和解させてくださいました」(エフェソ2:14‐16) ◆ ここの部分は単純に信仰による救いなどがテーマなのではない。律法を理解する≪言葉≫のパラダイムシフトの話なのである。メタファー理解の≪言葉≫の本質の話というわけだ。<言葉>を一義的に捉える立場と≪言葉≫を多様に捉える立場。唯名論と実念論の立場の違い。実定法と自然法の違い。二元論と関係論の違い。ものとことの違い。規制か緩和か。こういう一見難しいテーマが日常の中で日々噴出し、戦争にまで発展しているのが今も昔も、未来も変わらない無限の出来事なのである。 ◆ しかし、その矛盾解決は≪言葉≫によるしかない。ところがその≪言葉≫は<言葉>でしかないのが、日本の公立学校(ドイツやフランスでは公立であっても宗教教育の環境は整っている)の限界なのである。伝える<言葉>は必ずしも伝わる≪言葉≫ではない。伝わる≪言葉≫はマス広告のようなコピーなどではましてない。 ◆ ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は亡くなる1週間前の復活祭のミサで、声がでなかった。しかし、語ることをやめなかった。伝えるのではなく伝わる≪言葉≫を語っていたのだ。法王の声なき≪言葉≫は次のような≪言葉≫である。
◆ ヨハネの福音でこの部分は、実は先のエフェソで語られていることと同じであろう。聖書はあらゆるメタファーで結局1つのことを語る。これは他の宗教でもおそらく同じだろう。ともあれ、この各宗教のバイブル・リテラシーこそ≪言葉≫リテラシーであり、≪読解≫リテラシーなのだ。このリテラシーの学びがなければ世界コミュニケーションというグローバル・スタンダードは持ち得ない。私立中高一貫校の≪一貫≫とは、6年間のカリキュラムを意味していると同時に、≪言葉を巡る問題解決≫が貫いているということも意味している。これがあるからグローバル・スタンダードを内包しているといえるのである。 |
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