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| 首都圏私立中高一貫校の東大進学占有率の意味 |
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2005年4月4日 |
| ◆ 今年も、私立中高一貫校から東大にたくさん進学した。特に首都圏の私立中高一貫校だけで、33%を占める(【グラフ1】参照。まだ発表していない私学もあるからあくまでも3月現在の数字)。また、東大の2003年(第53回)学生生活実態調査(参照→http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1302/index.html)の結果によると、東大に進学させている家庭のうち27.3%が1050万円以上の年収所得がある。
◆ この所得層と首都圏私立中高一貫校の家庭がぴたりと重なっているかどうかは、公表されているデータだけからは証明しようがないが、ほぼ重なるとみて差し支えないだろう。私立中高一貫校の学費を支払っている家庭層が、そのまま高所得層につながっているからだ。 ◆ 以上のことから次のような結論が引き出されるのが常だ。階層の二極化が進んでいる。高所得者層という私立中高一貫出身者が増えることによって多様性が保たれなくなり、創造的才能者が東大からは出てこなくなるのではないか。という概ね2つの結論がまことしやかに語られる。 ◆ 特に教育社会学は、階層構造を見破ることが仕事であるから、私立中高一貫校は目の敵であり、その一方でアメリカの教育を研究し、すばらしいと言わんばかりである。自分の研究成果は持ちあげなければしかたがないからかもしれないが。 ◆ しかし、それは階級構造ではなく階層構造に過ぎない。形式的平等の中でささやかに突出した集団にすぎない。スポーツや芸術、政治で突出すると年収も高額。しかし、その出自は結構親から受け継いだものであったり、親が環境を整えたというケースも多いのだが、そこに階層構造があるなどという批判をあまり聞かない。スポーツも芸術も、政治も大衆社会の構造の中にしっかりはいっているにもかかわらず。この構造は平等を前提にしながら、差異を楽しむシステムである。その1つのシステムとして階層構造はあるが、それは二極化して固定されてきたなどというようなものではない。それはもっと別のところに原因があるのであって、階層構造を持ち出すのは、かえって、それを操作している高次のシステムを見えなくする役割を果たす。 ◆ また私立中高一貫校出身者が多くなると多様なものの見方が失われるというのは、大きな誤解というか、それは人権問題だし宗教問題に発展する発言である。もともと私立中高と公立中高では、所轄が違い、私立のほうが自由の空間を持っているし、宗教教育も認められている。多様な価値観が私立中高一貫校に認められているのは、法的にも保障されている。むしろ公立の教育が画一的になっているという自覚は、東大の教育社会学者が自ら確立したようなものではないか。だからこそ悪名高いゆとり教育の改革が実行されたのではなかったか。 ◆ 【グラフ2】を見ればわかるように、東大進学者の出身校の教育理念をタイプ別に分けると、公立よりも多様であることがわかる。だいたいミッション系でない創立者の精神に基づいて設置された学校の教育理念は、100校あったら100の考え方に基づいていると考えるのが妥当である。
◆ 出るくいを打ったり、足を引っ張るようなジェラシーやルサンチマンを増幅するような理論では、日本社会はこれからの国際社会でコミュケーションをとっていけないだろう。創造的なリーダーシップを発揮しない限り、国際社会ではいつまでも未熟な集団だと思われ、相手にされないだろう。 ◆ 平等を最優先にするのなら、フィンランドのような高額納税福祉システムを作りあげればよい。そうでなければ、わずかながらではあるが、リスクはあるが自由裁量(選択の自由以外に自由の概念は存在するのである)の余地のある社会システムを謳歌する以外にないだろう。経済社会ではうまくいかなくても、文化社会では上手くいく可能性もあるのである。ところがフィンランドは経済社会と文化社会が表裏一体をなしているから、労働しなければ税金を払えない、税金を払えなければ保障されないシステムである。そういう意味ではシンプルな1つの循環社会が出来上がっている。 ◆ しかし、日本は複合的な循環システムが交差したり拒絶したりしていて、実におもしろい。ただ、そのような理解ができないような何かが今あることは確かである。行政制度、立法制度的な規制ではなく、精神的抑圧規制が働いている。これはどこから来るのだろうか。どのように証明すればよいのだろうか。それはともあれ私立中高一貫校の存在はまさに多様な循環システムを包含しているシステム・メタファーではないか。私学の経済システムは日本の社会システムにつながっているが、文化システムについてはつながっている学校もあるし、ない学校もある。 ◆ だからといって、私立中高一貫校がよいなどということを言いたいのではない。アンケート調査や意識調査のデータ分析結果を、1つの方向性にだけ結びつけた結論を引き出すのは危ないということを言いたいだけである。社会学的統計分析は、科学主義的なアナロジーに過ぎず、まして客観的などでは全くない。文科系的人間のほうがこの「客観」という言葉をつかいがちだ。理系というか自然科学のほうは、すでに「客観的」とか「絶対的」という概念はパラダイムシフトしている。 ◆ 教育評価における「絶対評価」という名称ほど、ちょっと考えると、ふざけた神をも恐れぬ名称はないが、それは今回の話題ではない。ともかく、東大に私立中高一貫校からたくさん入ろうが、復権をねらった公立高校からたくさんはいろうが、そこに問題は全くないのである。問題はもっと別のところにあるのである。それを見えなくするようなちっぽけな議論はさっさと捨てた方がよいだろう。 |
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