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| フィンランドの教育の本音(4)〜読売新聞の報告の意味 |
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2005年3月30日 |
| ◆ 3月23日から読売新聞でもフィンランドの教育について報告が連載されている。わりと視察とインタビューの積み重ねを中心に忠実に報告されている。しかし、本音が伝わってこない。新聞の使命としてしかたがないのかもしれないが、それにしても直喩や例示というレトリックで表現されているのは政治や経済など他の領域の記事に比べ違和感がある。
◆ 教育関連記事と言うのはいつもどの新聞社のものも同じトーンだ。新聞というメディア組織が生んだ夏目漱石。漱石は学校文化でも大いに尊重されている。今も魅力的な表現なのはさすがだ。しかし漱石のその多感なレトリック感覚は全く学校文化というものには継承されていない。学校が学んでいるのは漱石の人気がなかったという座学型の講義文化だ。東大の講義を受け持ったものの、前任者の小泉八雲には全くかなわなかったと言われている。八雲の講義はアクティブで、対話的で欧米の授業のベースを持っていたのだろう。 ◆ フィンランドの授業は、八雲型であり、フィンランドの学校の表現力は漱石型なのだ。ところが日本の学校やこと教育に関するメディアの表現は、漱石の座学型の授業方法論を採用しているのである。 ◆ 漱石の「坊っちゃん」「吾輩は猫である」などは、学校文化の野暮なところを、メタファー、パラドックス、メトニミー、シネクドックなど多様なレトリックを自在に操り、その表現はまことに粋なのだ。多感なレトリックで描くからこそ、本質のイメージを読者の脳裏に反射させられるのだろう。ところが、直喩や例示ばかりだと、イメージをそこから広げるというより限定する。抑圧型レトリックになっているのである。 ◆ 読売新聞の教育ルネサンスというコーナーでフィンランドの教育が報告されているが、その中に「日本では…」というミニコラムも載っている。比較というレトリックが違いを浮き彫りにするという配慮かと思った、が、違った。日本でもフィンランドと同じような動きが行われていて、日本の教育も捨てたものじゃないという道徳(イデオロギーとでも言ってもよいかもしれない)が隠れている。 ◆ それにしても一回目の報告「読書教育で読解力向上」(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20050323us41.htm)という記事は少しがっかり。なぜなら、そこで記述されているフィンランドの「読書教育」は、日本でも行われている読書運動とさほど違わないものである。日本の図書館の司書も実は大いにがんばっている。フィンランドは「図書館利用率世界一」だからPISAの結果がよかったわけではあるまい。だがそういうことになってしまっている。 ◆ 図書館の数や書店の数を比較してみるとどうだろう。おそらく日本は多いだろう。飽和状態になっているかもしれないほどである。相対的に図書館に行かなくても購入する文化なのかもしれないし。まったく環境や条件が違うのだから、図書館を利用しなければPISAの結果がよくならないみたいな素朴因果関係論的記述は妙だ。 ◆ そうは言ってもフィンランドの教育は、日本の教育と同じように「読書教育」に力を入れているのは事実である。しかし、それは「読書教育」と言うより「言語教育」なのだ。日本の「読書指導」は言語教育ではなく感動教育である。しかも個人的な感動ではなく護送船団的感動。だから、その反動で携帯メールが普及するのではないかと仮説を立てたくなるほどである。 ◆ フィンランドの歴史から考えても、「読書教育」は「言語教育」にならざるを得ないはずだ。フィンランド当局はそんなことを思ってもいないかもしれない。しかし、スウェーデンとの関係、ロシアとの関係、EUとの関係、外資との関係などなど。「言語ゲーム」ができなければどうしようもない。 ◆ ホテルの表記も、まずフィンランド語、次にスウェーデン語、最後に英語と多国籍になっている。ヘルシンキの街の表記もそうなっているケースが多い。それをよく見てみるとおもしろいことがわかる。同じ内容でも、文章が一番長いのがフィンランド語、次がスウェーデン語、そして最後が英語。同じ時間内に情報処理する文字量がフィンランド語は実に多いのである。
◆ それにテレビもおもしろい。アメリカやイギリスから輸入しているコンテンツが多いのだが、そうなると音声は英語で、字幕はフィンランド語。この字幕のフィンランド語の量がものすごい。子どもたちはこれを素早く読み取らねばならない。日常が速読力をトレーニングする環境にある?フィンランド語でKISSAは、英語でCATのこと、日本語だと「猫」のこと。字数だけでは語れないが、少なくとも漢字は表意文字でイメージがすぐに思い浮かぶが、表音文字系のフィンランド語の場合、記憶という脳の機能が漢字とは違う働きをしていることは事実だろう。同じ時間でより多くの文字数という情報を処理するということは、素人考えかもしれないが、当然何らかの能力がそうでない場合よりも鍛えられるのではないだろうか。 ◆ 文字の性格や情報処理の脳の機能が違うにもかかわらず、PISAで比較したとして何が言えるのだろうか。このような議論があることは、実はフィンランドの現場の日本語教師から聞いた話だ。こういう議論が教育現場では実際に行われている。外交辞令的な言説だけを取り上げるのは少し偏りが出てくるだろう。しかし、本音を語らない限り、外交辞令はあたかも真実のように新聞読者には伝わってしまう。 ◆ 報告には語られていないが、ヘルシンキの大きな書店には、日本のマンガが大きなコーナーを占めている。噴出しは、フィンランド語訳や英語訳だ。売れなければ書店でマンガコーナーは設置されないだろう。 ◆ 実は日本語は今静かなブームなのだ。このマンガやアニメを原語で読みたい、見たいからというのが大きな理由だそうだ。これも偏ったローカルな理由に過ぎないかもしれない。むしろアキバ文化の積極的世界戦略の一つの効果だと考えた方が社会学的なセンスがあるかもしれない。 ◆ いずれにしても今回の読売新聞の報告は、いかに日本の公立学校文化がベタか、公立学校表現が抑圧的道徳的レトリックを扱っているかを逆照射しているという意味で重要である。私立学校を金持ち集団の通う学校として無視するのではなく、いかに創造的レトリックを駆使しているかについて、フィンランドの教育と比較する観点がないかということもよくわかる。そういう意味でかなり貴重な報告である。 ◆ フィンランドの教育は税金がきちんと反映している。授業、カリキュラム、教師の質など、税金を支払っている市民満足度を高めているといえる。一方日本の公立教育は、税金がますます反映しなくなっていく傾向にある。だから私立学校は、税金も払い、さらに不足分を学費という形式で支払っている。だから顧客満足度を高めざるを得ないのが私立学校のミッションである。 ◆ 市民満足度も顧客満足度もその資金調達の方法が違うだけで、OECD/PISAの調査観点から言えばステイクホルダーとして同質の構造を持っている。そして市民満足の対象であるフィンランドの生徒の数と顧客満足のターゲットである日本の私立学校の生徒の数はおそらく、まだ計算していないが、同じような数になるだろう。イギリスの教育は経済を活性化するというのは、一理あるのである。 ◆ 日本の私立学校が正しくて、公立学校がそうでないということを言いたいのではない。フィンランドや日本の私立学校のような教育を公立ができないのはなぜかそのチェック装置として、崇めたり無視したりせずに、分析することが肝心だということを言いたいのである。ルサンチマンから解放されることが得策であるのに、OECD/PISAの結果を見て、総合学習を縮小し、学力向上のためにがんばろうなんてトーンは、ルサンチマンの塊としかいいようがないのではないだろうか。ルサンチマンを捨てない限り、アジアにおいて日本は仲間として受け入れられないだろうし、欧米には逆にそこをうまく使われ、オリエンタリズムを必然化されてしまうだろう。マスメディアにはそこを鋭く指摘してくれることを期待したいものだ。 |
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