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2005年3月30日 |
| ◆ OECD/PISAのフィンランド教育の成功についての報告は、フィンランドの教育現場にとってショックだったのだが、このFショックの表面的かつ象徴的出来事は、フィンランドの国家教育委員会に各国から訪問者が殺到し、説明を有料にせざるを得ないほどになったことであるが、実は説明すれば説明するほどフィンランドの教育問題がどこにあるかが明らかになるのである。
◆ PISAで優秀なスコアを獲得しても、その問題を教育現場で解決することにつながらない。それどころかフィンランドの教育問題はフィンランド社会システムの矛盾を鏡に明白に映してしまうのだ。そして結論的に言えばグローバル社会の矛盾と重なる。 ◆ フィンランドの総合制学習の肝は、学習者中心主義を徹底した限りない選択肢の設定である。そしてこれを支えるためのコストはすべて税金によって担保されている。フィンランドの高校生は、日本の大学生のように家庭から自立する。一人暮らしを始めるのである。アルバイトもするが補助金もでる。いわゆる奨学金だろうが、それも税金で保障されるわけだ。いうまでもなく教育は無料。それも税金が担保。 ◆ たとえ日本と一人当たりのGDPが100万円前後違っても、全員が総合制学習を受ける権利がある。税金で保障されているシステムなのだ。徹底した良質教育。日本では私立中高一貫校に相当する教育なのだが、我が国ではこれは首都圏に集中し、このエリアの私立中高一貫校に通っている生徒は、同世代人口の3%にすぎない。人口数的にはフィンランドの中高生の数と東京エリアの私立中高一貫校生の数は同じくらいかもしれない。しかしこれは羨ましいと判断できるかどうかはわからない。税金の高さという点があるからだ。 ◆ このように、日本とフィンランドとでは、あまりに教育環境/学習環境が違うのである。その違いを明確にしないままPISAのスコアの違いを論じ合っても、もしかしたら大事な点がみえてこないのかもしれない。 ◆ さて、税金が高い。これが問題である。人口600万人いかないフィンランドの一人当たりのGDPはアメリカや日本に比べれば低いけれど、ヨーロッパの中では決して低くないのである。それで無料で良質の教育環境を提供できる。これはどう考えても不思議だ。中小企業が成り立たないほどの税金システムなのだ。どこから税金を収集するのだろうか。 ◆ 学生がアルバイトするにしても、アルバイトの代金を支払う国内企業があるのだろうか。日本はフィンランドに他国に比べ直接投資をしていないように思われている。しかし、圧倒的に人口が少ないことを考慮すれば、最近のドイツやフランス以上に投資しているのである(【表1】参照)。 ◆ 当然他の国はもっと投資をしている。そしてそれが税金としてフィンランドに吸い上げられる。北欧でいち早くユーロを導入したのも、フィンランドは対内直接投資を誘引するきっかけにしたかったのは明らかだ。 ◆ フィンランドの教育は競争がなく多様な選択肢の用意をすることによって、協働社会を支える国民・市民の育成をしているというイメージだが、下部構造としての生理的欲求や所属欲求、競争欲求は外国資本に任せ、そこから税金を回収し、その上部構造に送り込む。上部構造では、補助されながら芸術にスポーツに生涯学習のチャンスを無料で広げていくことができる。日本の投資もフィンランドの上部構造を支えているのである。ところが日本では、フィンランドのような総合制学習をすべての子どもたちが無料で受けることはできない。私立学校に行かねば受けることができないというのが本当のところだろう。 ◆ アメリカや日本は、その下部構造と上部構造の二極化がいわゆるカセギの量で決定されている。だから、あたかも競争の過酷さ、残酷さがあるように表現されるわけであるが、その判断は実はにわかにはできない。このような批判はフィンランドにおいては上部構造に位置する側の人たちの言い分に過ぎないからだ。 ◆ フィンランドは上部構造においてそれほど差のない生活をしていけるのであるから、下部構造の存在を封印し、安定した生活ができる権利と義務を持続する社会システムを維持したいところ(フィンランドの教師の人生観でもある)だが、外国資本を受け入れているのであるから、下部構造のおもしろさを子どもたちが見逃すわけがない。 ◆ すでに携帯の普及とテレビによるハリウッド映画の普及(コンテンツはほとんどが輸入に依存)は、下部構造の情報を抑えることはできない。理念的にも選択が肝であるから、このような情報を入手するかしないかは本人の選択の問題であり、止めることができない。 ◆ 北欧はアメリカ帝国主義という意味のグローバリゼーションに対し、アンチ・グローバリゼーションをぶつけてくるというイメージがあるが、そもそもクロス・カリキュラム・コンピテンスを採用した段階で、知や情報のグローバリゼーションの波を思い切って受け入れているのである。 ◆ もっとも、まだまだ上部構造は安泰である。だからそこでのコミュニケーションは純粋だし高級感がある。しかし、それを今の日本に持ち込んだら、粋でない、野暮である。どうもベタである。フィンランドではそれが倫理なのであるが、今の日本ではそれはお笑いノリのアイロニカルなレトリックの洗礼を受けることになるだろう。 ◆ この事態を日本の子どもたちの道徳意識が低下したとか学力が低下したと受け止めるのであろうが、そういう言説を振り回す人々は上部構造の空間に位置しているビューロクラティックなエリートが多い。完全に日本のアキバ文化やメディア文化とはズレている人たちである。 ◆ アキバ文化やメディア文化が正しいと言っているのではない。そういう文化と対話をしながら教育改革を行っていくという市民感覚がないところに日本の教育行政の問題があるのである。スクールミーティングは相変わらずガス抜きだし、見識者たちとしか中教審などの諮問機関を進めようとしない。これも基本的には根回し文化。 ◆ かくしてFショックは、フィンランドの教育を参考にしようというところに本義があるのではなく、グローバル社会システムの矛盾を明らかにし、それを解決するための民主主義的システムが成立しているかをチェックする好機なのである。日本の教育学は道徳学の域を出ていないと言っても過言ではないが、体質改善するチャンスでもあろう。
※「THE WORLD 2003」監修ジェトロから制作、データ自体は2001年。 |
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