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| フィンランドの教育の本音(2)〜歴史が形成した国民の性格 |
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2005年3月18日 |
| ◆ 前回、Fショックは、フィンランド人にとってこそ衝撃だったようだと述べた。PISAによるフィンランド教育の成功の報告は、現場ではピンとこないものだからだということだったが、これについて、現地で20年近く生活をし、現地の高校で教師をしている日本人に聞いてみたので、その限りでの話をしてみよう。
◆ フィンランドの総合制学習は、今年から再びブラッシュアップする。簡単に言えば選択肢が増えるわけだ。必修の単位の方が選択単位より少なくなる。これは教育だけではなく、あらゆる領域で国民や市民の選択を徹底的に重視するフィンランド政府や自治体の特徴である。というよりフィンランド国民や市民の特徴と言った方がよいだろう。したがって、学習者の選択を重視する総合制学習が徹底されるわけである。 ◆ この総合制学習は、"Aihekokonaisuudet"というコンセプトであり、日本のように教科的な扱いではない。各教科の必修項目と選択項目の作り方、授業の方法すべてが総合的な発想なのである。1989年の歴史的転換以降、日本の教育現場(現在35歳以下の教師は特にそう。これは日本の歴史的経緯によるものだからいかしかたがないことかもしれない)ではもはや理解不能だと思うが、この総合的という発想にはヘーゲル的な哲学の基礎がある。ヘーゲルそのものではなく、プラトン以降の弁証法的発想といったほうよいかもしれない。 ◆ 私たちが訪問した時期、日本のマスコミや教育関係者たちも訪れていたRESSU高校の授業風景を見ればすぐにわかることだが、生物であれ、数学であれ、国語であれ、プレゼンテーションや議論、ダイアード的手法を各教科の中で当然のことながら使っている。もちろん座学的な講義もある。日本では今品川区教育委員会が始めた市民科があるが、その市民科の授業のプロセスがすべての教科で行われているのがフィンランドの特徴である。 ◆ 「選択」をするには、意思決定が必要である。意思決定は様々な角度から検討するだけの情報を収集し、整理し、チェックし、課題を見つけ、それが解決可能なのかどうかなど判断しなければならない。それゆえ必然的に授業は、探究、議論、発表などのプロセスが展開するのだろう。またチーム学習も極めて重要だ。様々な価値観の葛藤の場面でこそ「選択」が問題になるからだ。言うまでもなく民主主義の基本の育成がここにはある。 ◆ そして「選択」ができるだけの選択肢の量。この量が「選択」の質を決める。この選択肢のさらなる保障が、今年からの新しい総合制学習の肝というわけだろう。 ◆ かくしてフィンランドの総合制学習は、言うまでもなく、OECD/PISAのために開発されているわけではなく、フィンランド人のためのフィンランド人によるカリキュラムなのである。 ◆ だから結果としてPISAで成功したとしても、それは現場の問題を解決できるわけではないのである。PISAがあろうがなかろうが、フィンランドの教育はあり、常に問題は発生している。それはある意味深刻なのだが、PISAで成功したという事実が、その深刻な問題を解決するわけではないというのがどうも教育現場での本音のようである。 ◆ さて、その深刻な問題ということについてであるが、それは「選択」の矛盾の現われである。国、自治体、市民の欲求の最適化を「選択」によって果たそうとするのであるが、「選択」には「選ばない」という選択肢も含まれる。勉強して労働してくれなければ税金を国は収集できない。税金があるから国民・市民の生活を保障できる。だから勉強してくれないと困るし、労働してくれなければ困る。「勤労・勤勉・倹約」というプロテスタンティズム倫理観は今も健在であるが、綻びもあるようだ。 ◆ PISAの結果がどうあれ、フィンランドの教育現場でも「学力低下」の問題はあるらしいし、学習意欲のない生徒もでてきているらしい。日本のように「学力低下」とか「フリーター」とか「ニート」とかいう社会現象にまでは到っていないが、その芽があるということだろう。しかしながら、それも「選択」の1つであるから、打つ手がない。そうならないような状況を作ることができるだけである。 ◆ 「そうならないような状況を作る」とはどうやってだろうか。それは「教師力」。総合制学習というカリキュラムのフレームワークはきっちりしているが、中身は教師の自由裁量でいくという。それには教師の質が問われるが、教師は全員マスターコースまで学んでいなければならないし、資格をいくつもとるようなシステム。しかも、教師をやりながら、関心のあるものについて、あるいはとらねばならない必要性が生まれたものについて、生涯にわたって学んで資格を取ることができる。 ◆ 教師の質の担保というシステムが行き届いているといえるのだが、「選択の自由」は「教師力」にとって常に両刃の剣。特に教師とか芸術家とかを大切にするフィンランドは、国民・市民の税金だけでは運営できない。芸術教育に力を入れるということは、そこに税金を投入するということである。その税金は誰が支払うのか。国民・市民以外から回収するしかない。 ◆ なるほどヘルシンキ市内をちょっと歩いただけで5件のマクドナルド(内装はさすがにセンスがあった)を目撃した。一般車としてのトヨタ、高級車としてのHonda(輸入もとがベンツといっしょにHonda車も取り扱っているからということらしい)も定着しているようだ。F1にスキーにスポーツも盛ん。 ◆ 競争ではなく協働を重視した選択の自由。これがフィンランドのベースである。しかし、アメリカ資本主義が入ってきていることも確かだ。アメリカがIT普及の理由に遠隔空間というのがあるが、フィンランドは、極寒がゆえにITや携帯は極めて便利であり、そういう意味ではバーチャルなアメリカ資本主義は受け入れやすい。また観光という点では、オランダのアムステルダムのようになるのかならないのか。アムステルダムの観光の構造は、マズローの5段階欲求を気軽にすべて満たせる構造になっている。つまり生理的欲求から自己実現の欲求まで簡単に満たすことが可能。 ◆ もっとも、フィンランドは、まだまだ自己実現欲求を満たす選択傾向に偏っているようだから、一気呵成にアメリカ資本主義になるということはないが、RESSU高校の副校長VELI-PEKKA LEHTINEN氏が自校の教育についてプレゼンするとき、パワーポイントに自ら書き込んだ解説用のシナリオをノートパソコンでさくさく説明してくれた。生徒たちがWeb上でどのように自分用のカリキュラムを作成していくのかも、Webを開いて説明してくれた。基本はフィンランド語だが、いっしょに訪れた岡部氏らが英語で質問すると流暢に英語でレスポンスもしてくれた。 ◆ その姿は、どうみてもシンボル・アナリスト的で、高級ビジネスマンやコンサルタントの風格だと思うのだが、そう感じたのは私だけだろうか。 |
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