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学校に願う
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2002年01月08日 |
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■ ニューズウィーク(日本版・新年合併号)でサミュエル・ハンチントン(ハーバード大学教授、著書「文明の衝突」は有名)は、「イスラム戦争の時代」と題して、この戦争の時代を生んだ要因を幾つか挙げている。その中で特に大事なものは次の2つだろう。 ■ 1つは、近代化やグローバル化に対する反動という側面からイスラムが復興したという理由である。もう1つは、イスラム諸国の政府は社会福祉や経済の分野で、国民の要求を満たせないうえに、国民の自由を抑圧したという理由である。 ■ 同誌で、フランシス・フクヤマ(ジョンズ・ホプキンス大学教授、著書「歴史の終わり」は有名)は、ずばり「彼らの標的は近代そのものだ」という論文を掲載している。近代に対し、イスラム・ファシズムが反近代を掲げているのだと主張している。 ■ ハンチントンにしてもフクヤマにしても、いずれにしても近代の問題性を投げかけている。テロに対しては、欧米側もイスラム諸国も政治的に表明しにくいかどうかは別として、断固戦うべしであることに違いはないだろうが、まだまだキリスト教対イスラム教という図式で語られている。もちろん根本的にはそこら辺が問い返されなければならないだろうが。とにかく、そういうマスコミの取り上げ方が多い中で、両者のイスラム・ファシズムとイスラム教は別のものであり、西洋近代化とキリスト教そのものも別のものであるという考え方は、世間が冷静さを取り戻すきっかけになるだろう。 ■ 問題は、近代化路線をとっている国々が、近代化が完成していないにもかかわらず、近代化が完成したかのような振る舞いをしてしまうところにある。近代化の誕生当初から現代にかけて、近代合理主義は合理的に矛盾を生成してきた。そしてこの矛盾を近代化が遅れている国々に押し付けるという合理的行動にでた。これが反近代を生む土壌となってきたのだと両教授は語るのである。 ■ そしてハンチントン教授は、さらにそれを押し付けられた政府は、国民にその矛盾を転嫁し、自由を抑圧したと。これでは現代の近代化なるものはイスラムの世界の人々にとっては、かつて自由を目指して闘った西欧の近代化とは似て非なるものとしか受けとめられないだろう。自由を獲得するものが近代化路線であったはずなのに、その近代が彼らの自由を抑圧するのだから。自由を求めて闘う相手が近代化なるものなのだという矛盾。今回の戦争の土壌は、この近代化の矛盾に、もうひとつこの矛盾が重なってできている。この縺れを解きほぐすのは容易ではない。なぜなら、近代化や民主主義の自由の担保は言論の自由にあるのだが、この自由を抑圧するのが近代化や民主主義だと思われているのがイスラム世界の現状だとしたら、どうしたらよいのだろうか。にもかかわらず、話し合わなければならないということしか考えられないのだが。 ■ さて、ここでは今回の戦争について書くのが目的なのではない。この戦争が生まれる土壌と同じ条件が、日本の教育の中にもあるとしたらどうだろう。そんなものはあるはずがないと一笑に付されそうであるが、戦後というのは、敗戦というものは、日本も実は近代化の矛盾を引き受けさせられたということを意味するのではないか、そしてその矛盾は日本という国の中の弱者に転嫁されたのではないだろうか。その鬱屈が屈折が臨界点を迎えて、今日の教育問題が起きているのではないか、そんなことをふと思ってしまったのだ。 ■ 実際、かつての「君は将来何になるのか、軍人になりたい、そうかそれでは刻苦勉励がんばれ」式の自己実現観と構造的には変わらない教育がなされている学校もある。「教師の言うことは絶対に正しい、問答無用だ」式の封建的な組織構造の学校もある。「流行やちゃらちゃらしたものは無用の長物だ。無価値だ」式の生活文化の変化に対応できない学校もある。「将来を模索している大学改革などはまやかしだ、経営しか考えていない、有名大学に進む以外に世の中を生き抜くことはできない」式の進路指導をしている学校もある。「論文や協調学習、ITなどは受験勉強にとって邪魔だ」式の学校もある。 ■ このような学校に自分の子供を入れたいと思う保護者は今どのくらいいるだろう。実際こんなに極端な学校は少ないだろう。しかし、小さいかもしれないが同じ構造を持った学校はある。「学級崩壊」などと騒がれている学校は、その可能性が高い。しかし、問題は表面化されていない学校である。どうか子供の考える自由、表現する自由、創造する自由などを過度に抑えるのではなく、近代の持っている矛盾を問い返し、少なくとも自らの学校は、その矛盾を無自覚に子供たちに押し付けることのないようにチェックし続けていただきたい。 |
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