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| 私立中高一貫校の表現 |
| 2000年1月18日 by 本間勇人(honma@netty.ne.jp) |
| ※ 本レポートは、「横浜市企画局政策部調査課」により編集・発行された「調査季報」140(1999年12月)に掲載されたものを、調査課の許可を得て転載したものです。図やグラフ等については、ホームページ上には載せませんが、読む上での支障はないものと思われます。しかし、もし質問がございましたら、Eメールでご連絡ください。 1 表現者としての私立中高一貫校 [1] エピソード1 朝8時、女子学院の講堂に、2学年の在校生と来春受験を予定している親たちが集まった。やがて、パイプオルガンの調べと共に斎藤正彦院長が講壇に現れ、一同起立して賛美歌187番を合唱した。そして院長によって聖書の中の一節が朗読され、話が始まった。 「『見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。』………身体の健康は食べ物で何とかなるが、心の健康は何によって満たされるのだろうか。今の日本という社会は、飽食の時代を迎えている。でも心は飢え渇いているのではないだろうか。最近のいろいろな惨めな事件はこの飢えと渇きを癒したいという欲望が原因だ。しかし、物質的な欲望はそれを癒しはしない。心は言葉によって満たされる。朝家を出る前に、家庭で言葉を互いに交わしてきたかな。互いを勇気づける言葉をかけあう という日常の会話は大切だ。言葉は情報を伝えると同時に生きる勇気も与えるのだから……。」 院長の話が終わるや祈りが始まり、やがて礼拝は終了。そこに集まっていた受験予定の親たちは、15分間の礼拝の体験をした。 [2] 私立中高一貫校はいかなる表現者か? エピソード1は、来年130周年を迎える女子学院(東京)で行われた来春の受験生の保護者を対象とした学校説明会の始まりの部分である。 プロテスタントというミッション校であるがゆえに、当校が大切にしている教育理念の実践に直接触れてもらい、教育の方針の理解を深めてもらおうというのが目的である。実は、説明会の運営進行方法は、様々であるが、そのほとんどの私立中高一貫校で、女子学院のような意図を持って学校説明会が行われている。 私立中高一貫校は、学校法人という組織形態のNPOである。教育理念に基づいた教育実践を、教師と生徒と保護者が協力し合い、互いに主体的に参加していくというのが前提である。したがって、私立中高一貫校は、選択するものであり、選択のための条件をすり合わせるチャンスの最も一般的なスタイルが、学校説明会であり、入学試験という機会である。 さて、学校説明会の中で斎藤院長は、2002年以降の文部省が行っていく教育改革によって、ある意味で公立と私立は共通する部分が多くなるだろうとも語る。それは、画一的な教育方法に対する反省とその実行がやっと生まれるだろうし、教育に対するゆとりも生まれるだろうというのである。話の中で、5日制実施と学習指導要領改訂、産業構造の変容にその根拠を求めていた。 しかし同時に、公立と私立の違いはより明確になっていくという点も強調する。 私立中高一貫校の根源的動機は、幕末あるいは明治に生まれた。日本が「近代化」を構築しようという時期である。司馬遼太郎流にいえば、青写真なき「近代化」が驀進していた時期である。戦後の官僚的な「近代化」も基本的には明治の流れを継承していた。実は新「地方自治法」ができあがるついこの間まで、この官僚的な要素は、見え隠れしながら存在し続けてきたのだ。だからこそ、1950年代以降から、自治体が官僚的「近代化」を問い返してきたのである。この文脈を想起してもらえば、青写真なき明治維新当時も、「近代化」の多様な捉え方、方向性が存在していただろうということは容易に想像がつくのではないか。つまり、明治以来の私学というのは、その当時から「国家」とは違う「近代化」を目指していたのである。 戦後、ある意味で強くなり、日常化した官僚的「近代化」を自治体が問い返しつづけてきた作業は、常識化しているがゆえに困難をきわめただろう。その点では、私学の根源的教育動機は、官僚的「近代化」も発展途上であったのだから、展開しやすかっただろう。 しかし、他者と違う道を歩んできただけで、教育理念をすでにある伝統ということで済まし、普段から洗い出してはこなかった。 制度的な側面から見れば、2002年以降公立と私立の差は縮まるだろう。長引く不況と少子化が相俟って、募集はさらに、減るだろう。2009年以降大学は全入とみなされている(グラフ―1 表―1)。すなわち、私学は自己批判する局面に立たされている。教育理念をその根源的動機にまでさかのぼり、それをどのように具体的に展開していくかを再構築する時を迎えているのである。 女子学院の斎藤院長は語る。「目に見えない大切な価値やそういう精神性をないがしろにする権力に対し、言葉によって心を空虚にされない自由を保てる自立した人間に育って欲しい。知識偏重の合理主義や教育を世渡りの手段とみなす功利主義を見破る考える力を養って欲しい。しかし、思い通りになるわけではない。だから、このような教育理念を学院中討議をして、洗い出し、毎朝の礼拝により継承し、各教科の教師が、教科を超えた知恵を生徒たちと分かち合うのだ。」 すなわち、私立中高一貫校は、権力的存在に対し常に周辺的存在であり、専門分化に対し常に統合的視野を大切にし、あくなき真実の問い返しを遂行する表現者であることを再認識しなければならない。 2 私立中高一貫校を選択する理由 [1] エピソード2 「犯罪が低年齢化している。自分が他者から《承認》されない不安が原因である。人間が互いに認め合うことは重要なのだ。私が学院生活を楽しめたのは、多くの人から《承認》されてきたからだ。しかし、何を《承認》されてきたのだろう。何を《承認》してきたのだろう。多くの人は、私が女子学院生であるということを《承認》してきた。私もそのことを疑うことなく満足してきた。しかし、そこに私自身の存在そのものはあったのだろうか。大学を選ぶときもブランド名が気になった。学院生活の中で、友人と語り合う中で、やはり人間の存在そのものの重要性に気づいた。女子学院生である前に、○○大学生である前に、人間であることを誇りに思って生きていく勇気を持ちたい。」 [2] 私立中高一貫校を志望する本当の理由 エピソード2は、女子学院の卒業論文集に掲載されていた論文の要旨である。 1970年代以降、マスコミで「受験競争」や「学歴社会」が社会問題として大きく取り上げられるようになってから、中教審や大学審などでも、「受験競争」の緩和策が論じられ、様々な政策が立案、実行されてきた。昨今議論され実行に移されている教育改革においても、その点はクローズアップされている。 ただ、「受験競争」の過熱ぶりが、私立中高一貫校のせいであるかのような命題の立て方は、問題である。西尾幹二氏がメンバーであったころの中教審では、その旨がはっきり打ち出され、世の話題になったことは記憶に新しい。 私立中高一貫校は、データを持ち出すまでもなく、いわゆるブランド大学にたくさん進学させている。たしかに私学を志望する保護者の大学に対する関心度は非常に高い。しかし、志望理由の第1は、私学の校風であり、次が交通の便である(グラフ―2)。6年間の学校生活の中で、どういう精神的影響を受けさせたいかが重要なのである。また、アクセスのしやすさは、日々の生活リズムが心身に与える影響を考えたとき重要になる。 この傾向が強いのは、教育理念が志望理由として3番目になっている女子の方である。現状の社会システムでは、まだまだ男性の労働力の重要性が大きい。そういう背景を反映してか、男子の方は、大学合格実績が3番目に気になるらしい。しかし、どちらにしても、人間の成長にとって最も多感で重要な時期をどういう教育環境のなかで、過ごさせるかが最重要課題となっているのが、私学選択の本当の理由・動機である。そして、そのうえで子供の未来を考えるのは、むしろ当然のことであり、「大学受験」というものに興味を抱くことは不自然ではないはずである。 にもかかわらず、多くの私立中高一貫校の存在理由が、大学進学カリキュラムにあるかのような幻想が常識化している。 現代日本人は、このブランド大学進学幻想を作ってしまう危険性をもっており、この眼差しを気にするなという方が難しい状況である。そして、私学における入学試験という制度が、この幻想を作ってしまう可能性を持っている生徒や家庭を、オープンに受け入れざるを得ないのも事実である。 だからこそ、私学は、教育理念にこだわる。学校当局が油断してしまえば、この幻想を自ら受け入れ、自らの手でそれを強化してしまう恐れがあるからだ。エピソード2にあるように、私学の教育環境の中で、生徒たちや保護者たちが、幻想を押し付ける他者の眼差しを気にしていたことに気づき、軌道修正していける能力を養っていくことは、私学の根源的教育動機である。 したがって、私学は、権力的存在に対し常に周辺的存在であり、あくなき真実の問い返しを遂行する表現能力や言葉を大切にするのである。 3 私立中高一貫校の教育実践 ― 横浜中のマルチメディア教育に生きる教育理念 [1] エピソード3 2002年問題の1つに、総合学習を本校の教育の中でどう位置づけるかという問題がある。様々な体験、多様なものの見方、豊かな知恵が、生徒1人1人の中で、内面化され、統合化されて、1人1人の個性的精神が成長していく場として、総合学習を位置づける。 [2] 横浜中のマルチメディア教育の意義 エピソード3は、三輪田学園(東京)の西校長が学校説明会で語った箇所である。教科としての総合学習ではなく、三輪田の教科指導、道徳教育、特別活動、行事指導、教育理念が、生徒の人格が成長する場として有機的につながっているという意味での総合学習を論じている一節である。 もしもこの総合学習についての考えを、他の私立中高一貫校に問えば、多くの私学が西校長の言説を支持し、それぞれの学校における教育の論理を熱く語り始めるであろう。 しかし、この有機的なつながりという、いわば、教育の質は、目に見えないがゆえに、従来から、熱く言説にして表象するしか術はなかったのである。そして、その抽象性ゆえに、理解は誤解に変容し、大学実績という数字が一人歩きし出したのは、先に述べた通りである。 ところが、3年ほど前から、横浜中の数人の若い教師が創意工夫を凝らしてきたマルチメディア教育が、学内全体に広がり、教育理念とその実践が目に見える形で統合されるに 到った。 横浜中独自の「家庭と学校を結ぶマルチメディア教育」は、生徒、教師、家庭、世界の相互のつながりを、ビジュアル的に(図―1)表象することができる。 生徒と教師と家庭が、Eメールやホームページでつながっているため、学校の発信物を共有できる。いろいろな相談もできる。 横浜中のオリジナル学習ソフトを使って、家庭学習の習慣も身につく。インターネットにそのソフトをつなぐことで、閉じられた家庭学習がオープンシステムになり、1人1人の生徒の家庭学習プロセスを教師と共有できるようになる。 こういうシステムを、言説だけではなくビジュアルで説明することを、横浜中は可能にしたのである。 従来、有機的つながりは目に見えないものとされてきたために、言説によって理解するしかなかったが、これだと理解が広がらず、教育理念が浸透しないという事態が生じていた。しかし、今回、横浜中は、教育理念を、生徒、教師、家庭が一丸となって遂行していける表象を開発したという価値ある役割を果たした。 実際、このマルチメディア教育を成功に導くのに大きな貢献を果たしのは、生徒たち自身であった。高校野球選抜大会の直前、ホームページで先輩たちを応援したいという中 学生の有志が集結。こうしてできたのが、マルチメディア班である。 彼らは、ビデオ担当、デジカメ担当、インタビュー担当、記事担当、ホームページ担当と相互に協力し合いながら役割演技を果たし、ニュースを発信していく。 彼らを見守る教師は、次のように語る。 「学校を代表しているという気持ちで、チームワークで取り組んでいる。技術が身につくのはもちろんだが、協力し合って作っているという達成感が重要である。そして、ネチケットや取材する相手のプライバシーのような問題も考えながら制作していくプロセスは、生徒の可能性をどんどん広げていくだろう。」 このようなマルチメディア教育を通して、新しい変化が生じている。クラブ活動という共同の場に参加する生徒が急増している。マスコミ関係で活躍したい。文系ではなく、理系に志望を変えたい。ホームページで小説を発表して自信を得て、作家になりたいなど人生に目的を持てる生徒も増えているのである。 しかし、この変化は、同時に、お互いを認め、励まし合うという創立以来の気風を貫徹させているのである。 このように、教育理念とその実践が有機的に統合されているという表象を開発した横浜中の教育は、21世紀教育の大きなヒントとなるはずである。 4 展望 [1] エピソード4 私学は常に、先見性を発揮し時代を先取りしてきた。建学の精神の一貫性と「時代の変化への即応性」の矛盾を統一したところに学園の独自性が生まれる。その最も重要な視点は「われわれは周囲の人の眼を意識して実行しているのではない。ひたすらに、生徒をみつめてただ実行するだけである」 [2] 21世紀教育に必要なこと エピソード4は、神奈川学園が世に問いかけている「21世紀教育プラン」の冒頭部分からの引用である。具体的な内容は学園のホームページで閲覧できる。 神奈川学園でも横浜中のような新しいマルチメディア教育を展開しているが、21世紀の人間教育の課題を、「自立」「技術」「共生」という3つの柱で捉え返し、上から押し付けるのではなく、自ら学び発見する人間教育を実践する1つの柱として考えている。横浜中のようにマルチメディアを全面的に展開していくわけではないところに、根源的教育の動機は似ていながらも、教育実践の大きな差異がある。 さて、このプランを策定し、実施する際に、神奈川学園では特徴的なアクションを起こしている。アメリカの大学のシラバスそのものではないが、そのエッセンスをとり入れた。 すべての教師の授業や生活指導の方法について生徒全員からアンケートを取ると同時に、生徒1人1人も、授業にどう取り組み、生活指導に対しどのように応じているかについて回答しなければならない。 この行為は、学校の文化を、ただ評論家的に指摘するだけではなく、教師も自己も見つめつつ、自分も参加しながら作っていく行為につながるだろう。そしてまさしく、自分の人生を1人1人考えるチャンスを与えたいという神奈川学園の気風が貫徹することにもなる。さらに、教師たちは、自分たちの教育について、ディスカッションするチャンスを作ることに労を惜しまない。21世紀の教育を考える上で最も大切なことは、実はこのオープンな討議をいかにしていけるかなのである。 21世紀教育の本当の突破口は、上からの教育改革が提示したり、マスコミがわかりやすく示してくれたりする問題を解決するだけではなく、市民1人1人の問題をいかに普遍的な問題としてとりあげ、解決の合意を形成していけるかにかかっている。 市民1人1人の問題をオープンな討議として扱っていくとなると莫大な量をどう処理するかという壁にぶつかるが、幸いこの量的なものを解決するマルチメディアという技術が急速に進歩し、まさに個人単位にまで普及しつつある。 また、討論するには、普遍的と思われる理念の絶え間ない洗い出しと議論を投げかける側の価値基準の自己批判という言説が必要になる。たしかに、コールバーグにしろ、ハーバマスにしろ、こういう討論の段階(表―2 6と7の段階)は、理想的状況であり現実に存在するのは難しいと論じているが、挑戦する価値は認めている。 とにかく、このような討論は、横浜中では、少数の教師が初めの1歩を踏み出した勇気から始まった。1人1人の生徒の要望に応えるべく、日夜議論をしている実例は、すでに神奈川学園にある。横浜市の他の私学でも同様のプロセスが、展開されているはずなのである。 |
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