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学びを考える

新しい学び時空(了)〜ヨーロッパの旅から

2005年12月16日
by 本間勇人(honma@netty.ne.jp)


◆ ベルリン市内からテーゲルエアポートにバスで移動するとき、連邦議会のある政治のセンター近くを通り過ぎた。とあるビルに大きく「人のために国家はある。国家のために人があるのではない。」というセンテンスが掲げられているのが目に入った。これが敗戦国(まだ戦後は終わっていない。89年からその終結と飛躍が始まったばかりなのだ)の新しい道だなと感じた。

◆ もっともケネディー大統領は、61年にこう国民に呼びかけた。「国が何をしてくれるのかを問うのではなく、国のために何ができるのかを自問して欲しい」と。敗戦国と戦勝国では国家観がまるで逆になるのはしかたがないか。これは日本も同じ。小泉首相の「国家観」はアメリカ寄りで、その点が問われているのだろう。あなたの国はアメリカナイズされているけれど、日本は日本でしょうと。

◆ それはともかく、そのときふと「人のために学校はある。学校のために人があるのではではない。」とも置き換えている自分がいた。新しい学び時空を求めるようになったのは、学びが学校の都合でまったく頑迷固陋な状況になっているのを知ったからである。もちろん、私が信じるクオリティスクールやエクセレントスクールはそんなことがないと信じたいが、必ずしもそうではない。とことん満足のできる学校選択というのは難しい。もっと言うと、戦争という問題をクリアできる教育を行う意志の感じられない学校もあるということか。

◆ チーム学習を軽視したり、チーム学習を仲間作りと置き換えたりしている学校があるが、チーム学習の命はディスカッションである。The Liberty of Discussionが保証されていない学校は、戦争が起こりうる状況を認識していない。「授業の中ではディスカッションなんかやっている時間などない」という言葉をいろいろな場面で聞く。「勉強とは1人でやるものだ」とも。J.S.ミルの「自由論」の中で、言論の自由と訳されている箇所がある。

◆ どんな先生も、この言論の自由は認めるだろう。もっともすぐに公序良俗に反しない限りなど、秩序優先主義の先生も少なくないかもしれないが。それはともかく、この言論の自由と訳されている語は、ミルの原文と照合すると、“The Liberty of Discussion”となるのだ。つまり本当の意味で言論の自由など、授業や勉強では認めないと言っているに等しいという自覚がない教師がまだいるのも事実なのである。

◆ 学校は誇りを重んじるのはよい。しかしそれと体面を保つこととは大違いである。残念ながらそこら辺りが意識できていない教師もうんざりするほどいる。こういう教師ができるだけ少ない(完全にいない非人間的社会は逆に考えものだ)学校を選びたい。

◆ ではどういうところがポイントなのか。それは意外と簡単なのである。学校説明会や講演で、具体的な説明がわかりやすいと勘違いしている教師が多いと感じたら学びが学校都合で動いているかもしれないと疑ってみる必要がある。

◆ そういうことをやるのは、あまりに大衆迎合的態度だからだ。断っておくが大衆と庶民は違う。大衆的市民と庶民的市民では、了解の構造が違うのである。日本の場合は市民と言う言葉がまずなじまない。だからほとんどが大衆的だ。ヨーロッパの場合、大衆的市民と庶民的市民を分けることができる。もっとも彼らはそんな分け方をしていないが。あくまでも異邦人的視点で見てと言う話。

◆ 具体的なものであろうと抽象的なものであろうと、実は形態とマテリアルがある。庶民的市民はこの四肢(座標)的了解構造を体感している。ところが大衆的市民の頭の中は、マテリアルが具体的で、形態は抽象的だと短絡的了解構造になっている。

◆ この四肢(座標)的了解構造を持っているのがユダヤ人社会であり、バウハウス的発想である。ということは短絡的了解構造は常にファシズムを生む危機に瀕している。ナチのみならず日本の宣戦布告などその典型例だ。平和は四肢(座標)的了解構造を養う学びの時空が必要なのだ。もしこのような発想が生まれたら、伝統というマテリアルに形態という新しさを加えることができるのである。たとえば、アインシュタインがニュートンを超えられたのは、ニュートンを否定したからではない。ニュートンのマテリアルを生かしてアインシュタイン自身の考え方という新しい形態に転換できたからである。

◆ したがって、創造的なコミュニケーション能力の高い教師というのは、自覚しているかどうかは別にして、四肢(座標)的了解構造がベースなのである。入試問題を見ると、一発でこの四肢(座標)的了解構造を有しているか、短絡的了解構造を有しているかがわかる。入試問題は、私たちが得られる粉飾されていない唯一学校が発信する本音の情報なのだ。裸の情報と言った方がよいか。四肢(座標)的了解構造か、短絡的了解構造か。短絡的了解構造の方が大学合格実績には即効性がある。

◆ だから本当のクオリティ・スクールやエクセレント・スクールは大学合格実績に邁進することにジレンマを感じるチェック・センサーが働いている。そのような学校はあくまでも四肢(座標)的了解構造をベースに、大学進学実績か結果的に出なければ満足がいかないのだろう。

◆ さて、伝統と革新は相反するものではないのである。それはマテリアルと形態の関係なのである。そして伝統も革新も、抽象的にも具体的にも語ることができる。座標的というのは極めてフラクタルな話なのである。具体と抽象の二元論はフラクタルを生まないのである。それゆえ二元論的世界では安心してわかりやすいという幻想の殻の中で生きていくことになる。幻想の殻の中こそファシズムの温床なのである。

◆ 21世紀がこんな時代ではないことは多くの市民が知っている。ではどうやってその殻を破るのか。ベルリンを散策してみよう。ユダヤ博物館に行ってみよう。バウハウスミュージアムに行ってみよう。ミラノのドーモに、「最後の晩餐」の前に立ってみよう。日本では、そういう新しい学び時空はあるのだろうか。イサム・ノグチ。最大のヒントだ。彼の抽象的な彫刻は、きわめて質感がある。そしてその質感は、その彫刻が置かれている彼の庭園で強烈に感じることができる。その質感は十分にあるイメージの形態を隈どることになろう。平和のイメージを。


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