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| 新しい学び時空(3)〜ヨーロッパの旅から |
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2005年12月14日 |
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◆ ミラノにはレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」以外にも興味深い歴史がある。それはシティの中心にあるドーモという大聖堂。初期のころの小さな聖堂が1000年かけてどんどん変貌しているのである。そのつど完成なのだが、未完成なのである。 ◆ 観光客も大勢訪れる。私が訪れたときは、クリスマスシーズンということもあって、終始列をなしていた。しかし、いかにドーモ内にはいって眺めても、なかなかピンとこない。たしかに厳かではあるし、個人的に祈る空間としても雰囲気はある。 ◆ 外観にしてもある意味未来的だ。たいていの大聖堂は大きな塔が2つ目立つぐらいなのだが、ドーモはいくつもの尖塔がある。1つひとつの尖塔を押せば、音が聞こえてくるパイプオルガンのようでもあり、その音に合わせてなんらかのフォースが生まれてくるような未来的で幻想的な何かを感じるのは私だけだろうか。 ◆ 内側も外側もたしかにフラクタルの様相をしているのだが、それがまだ三次元的で虚時空にはなりきれていない。訪れた1人ひとりの感じ方の中には、イマジネーションの強い人がいて虚時空なのだろうが、たいていの場合はいまだ「モノ」である。これが物理的なドーモではなく虚時空的なドーモに変容するのはいかなる場合か。 ◆ それはあっさり回答がでた。ミサの瞬間である。私はベルリンに移動するために、ミサに完全には参列できなかった。何せ日本の教会のミサの2、3倍の時間の長さなのだ。実に惜しかったが、とりあえずヨハネの福音を司教が朗読したところで、立ち去った。私はイタリア語はわからない。しかし、このミサは外国語を超えてカトリックのミサ・コードがあるため、世界中どこでも同じなのである。つまり地球が回っているため、永遠にこのミサ・コードが弾かれているのである。何というフラクタル、何というスパイラル。 ◆ ドーモのミサそれ自体がフラクタルいやケイオスである。寺でいうお香のようなものがたかれる。その煙はあの広大なドーモのスペース全体に拡散する。もちろん天井にあがっていくその姿はまるで・・・。またパイプオルガンの音色と聖歌隊の声の広がり。そして司教の旋律に合わせた声。煙はその声にゆらぎ、ステンドグラスから入ってきた光を際立たせる。外側にも内側にも、あのゲートの形はいたるところにある。「動き」「フラクタルあるいはケイオス」「ゲート」。ゲートが一斉に開き、空間がゆがみ虚時空が現れる。 ◆ ミラノの中心街は古い街並みだ。ドーモの前の広場からショッピング通りやブランド通り、金融通りが広がる。そしてスカラ座も。虚時空が人を誘(いざな)い、経済を発展させる。経済が豊かになるには文化は虚時空である必要がある。平和。ともすれば戦争がおこらないことが平和。それはそうである。しかし、それが虚時空にまでつながらないと、単なるバランス・オブ・パワーという常にリスキーな状態が続く。 ◆ ドーモのミサで朗読されたヨハネの福音の箇所は、洗礼者ヨハネの後にやってくるイエス・キリストの箇所だ。洗礼者ヨハネは水で洗礼を与えるが、イエス・キリストはそれをはるかに超えたパワーを持つ。つまり物理的なパワー(洗礼者ヨハネ自身の力は物理的なものを超えて尋常ではないが)から虚時空のパワーにシフトする瞬間だった。新しい人の訪れであり、新しい世界のスペースの到来。こんな風に聖書を読んだとしたら、キリスト教関係者に解釈が違うと叱られるかもしれない。ミラノがミラノであるためには、ドーモや「最後の晩餐」のような虚時空が必要なのである。もちろん人々は信心深いだけではない。 ◆ サッカーチームのミラノやインテルの試合に夢中である。9万人弱の観衆をいっぺんに集客できるスタジアムは、まさにフラクタルそのもの。動きもゲートもある。もしフラクタルでなければ試合はおもしろくない。いつも新しくなければならないからだ。そうでなければおもしろくないだろう。それにこのスタジアムは一回で100億円をはるかに超える経済を生み出す。どうやら学びのスペースが虚時空になるということは、ある意味経済的にも「新しい人」になる次元のゲートが開くことなのかもしれない。 |
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