私立中高一貫校研究 私学Bracketing 学校選択を考える 入試について 学力を考える 学びを考える
教育と経済 フランク・ロイド・ライトとの対話 これからの教材 企業と経済研究 入試に役立つ読書 未来を創る学校


学びを考える

新しい学び時空(2)〜ヨーロッパの旅から

2005年12月13日
by 本間勇人(honma@netty.ne.jp)


◆ パリからストラスブールに移動したところで、二つの目的を達した。次はミラノに飛んだ。どうしてもピラミッドの時空の謎を解きたかったからだ。ルーブル、ユネスコのイサム・ノグチ、CEEJAとのコラボレーションと続いた学び探しの旅は、ミラノに結びつく。

◆ そこにはサンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会がある。修道会は聖ドミニコ会だ。ドミニコ会士が、レオナルド・ダ・ビンチに頼んだ絵がある。「最後の晩餐」がそれだ。この絵の謎は、「ダ・ビンチコード」で有名になったが、私はそのミステリーが作った謎ではなく、「最後の晩餐」の時空そのものの謎を知りたかったのである。

◆ まず1つ解決したのは、この絵の中央は、イエス・キリストが占めているのだが、足元に井戸というか穴というか、とにかくそういうものがあって、イエスの足だけは描かれていないのである。しかし、これは当時、この絵がダイニングのスペースの壁に描かれ、そこに扉があったということだ。その入り口をつぶしたので、井戸のような輪郭を残しているということなのだ。

◆ しかし、これは単純に昔の扉の名残というようなものではない気がする。それはゲートなのである。イエスの足を洗うことによって、神の国にワープしたであろうマグダラのマリアの行為の象徴である。宗教がかかってきたように思うかもしれないが、そこはどうでもよい。要はゲートとか門が、人の世では凱旋門のようなイメージなのだが、イエス・キリストはそういう人間的時空の出入り口ではなく、虚時空をイメージしたと考えればよいのである。強者が勝利する門ではないとイエスなら言うだろう。神のもとの弱者は人間の中の強者より強いのであると。Human Standardをはるかに超える大きさ。グローバル・スタンダードとかが欧米人にとってわかりやすいのは、こういう下地があるからだろう。

◆ それから遠近法だ。単なる遠近法を使って、奥行きをリアルに見せるトリック・アートのようなものをダ・ビンチは創出しようと思ったわけではないだろう。ルネッサンス時代すでに定着つつあった伝統的遠近法をダ・ビンチが使ったのは、物理的な空間の奥行きを創るためではない。それは次善の目的に過ぎない。イエス・キリストのユダの存在の告白に対する他の使徒それぞれのさまざまな反応や動作をダイナミックに描くには、2次元では限界があったのである。動きにはどうしても3次元が必要である。そして3次元に動きという時間を入れることで、「最後の晩餐」は一気に次元を多次元に映し出す。

◆ ダ・ビンチは絵画で時空を彫ったのであるが、そこには動きが加わらねば力を生み出さなかったのである。2次元、3次元と次元をアップさせ、そこに動きという時間を加えることで、そこは虚時空になる。そしてそこにはゲートが開くのである。虚時空のゲートは空間がフラクタルに歪む。だからピラミッドなのである。ルーブルのゲートはピラミッド。内側から頂点を眺めれば、いかに空間が歪んでいるかがわかる。そこは虚時空へのゲートなのである。イサム・ノグチはこの手法をもっと自覚的に取り入れる。

◆ 学びの時空をいかにして創るのか。それは日本庭園を創ることを意味するわけではない。レオナルド・ダ・ビンチの絵を模写することでもない。もちろんそれでも良いわけだが、私が創る学びの時空はそういうものではない。学びの時空を生み出す芸術作品を創るのではなく、芸術作品やさまざまな事物が虚時空に存在するように学びの時空を仕掛けることが専門なのだ。

◆ 「動き」、「フラクタルあるいはケイオス」、「ゲート」の3つが学びの時空を創出するときの最小限の条件である。頭文字をとってこの3要素をBFGと呼ぼうか。このBFGはルーブルにも、イサム・ノグチにも、CEEJAにも、もちろん「最後の晩餐」にも、そしてドミニコ会にも存在する。ルーブルとイサム・ノグチはわかったとして、「最後の晩餐」とドミニコ会にたとえばフラクタルなどどのように存在するというのだろうか。

◆ 「最後の晩餐」は光がポイントである。ドミニコ会も光がポイントである。光が創るフラクタル。光自体がフラクタルだろうが、ともあれそういうものがはっきりとあるのである。それについてここでうだうだ語ってもおもしろくないので、機会があれば話すことにして、大事なことは学びの時空にBFGが欠かせないということなのである。

◆ コンテンポラリー・アートがなにゆえいつも新鮮なのかというと、このBFGが必ず要素として存在するからである。ただし、意識的に創造しているかどうかはわからない。その意識の度合いによって、コンテンポラリー・アートのサバイバルは決まる。学びの時空も同じである。


学びを考える 目次へ