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● 近代の歴史と車
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第1章 自動車伝来

by葛原 怜

■ 21世紀に入り、自動車が作られてからおよそ100年の月日が経った。自動車が我々の生活には欠かせない交通手段となっている事は、間違いないだろう。一家に一台の車が日本の中だけでも普及している。単純に考えてみたならば、自動車が無かった江戸時代以前はどんな交通手段があったのだろうか。人力車、馬車、御輿・・・。人間か、人間に代わる生き物が力を出さなければならなかった。つまり誰かがつらい思いをすることで、楽に移動できる手段があったのである。

■ しかし、『自動車』はそんな考え方を根底から覆す発明であった。誰も力を出さなくても移動できてしまうのである。つらい思いをしなくても、移動できる術は無いのだろうか、という人間の欲求を見事に叶えたのである。この頃から、人間の世界に『科学』という言葉が普及し出したのではなかろうか。『人間の身体的限界を超えることができるもの』、それが『科学』の定義に思えてならない。

■ 日本に初めて渡来したモータービークルはなんだったのだろうか。またいつのことであろうか。1896年1月に石油発動自動車試運転が行われた。この『石油発動自動車試運転』は、軌道に頼らず路上を自由に走り回ることができる、最初のエンジン付き自動車の出現を意味している。欧州でも四輪自動車が未完成だった頃、ドイツで発明され、史上初めて量産されたモトラッド(モーターサイクル)は、即座に日本に輸入され、皇居前広場で公開試験が行われていた。まだ「自動車」という概念すら無かった極東に到着した未知の乗り物は、「一人乗りの汽車」と呼ばれ、人々はその速力に驚愕する。

■ 二輪のモトラッドに続いて到着した、本格的な四輪自動車は、一体、何だったのだろうか。この重要な史実についても、過去の日本自動車史では、不明瞭な憶測がくり返されていた。その疑問に決定的な一石を投じる正確な記録といえるのが、1台のフランス車だ。デフネなるフランス人商人が東京に持ち込んだガソリン式自動車「パナール・ルバッソール」は、買い手が付かず、その後、歴史の闇に姿を消す。だが、この自動車が、築地〜上野間をデモ走行し、二筋の轍を残していたのであった。

■ 自動車が誕生するにあたって日本はその技術をどうしたのかという疑問が表れるだろう。当然、西欧から伝わったものであるからその技術も伝わったのであろうが、約80年後に日本の車産業が西欧をも越えるようになったのには、他にも理由があったのである。

■ それは、1543年の鉄砲伝来にさかのぼる。種子島に渡来した火縄銃は、すみやかに畿内に持ち込まれ、また即座にその複製が行われ、わずか数年のうちに和製の火縄銃が完成し、可能なかぎりの大量生産体制がとられていた。ポルトガルの商人メンデス・ピントが書いた「東洋遍歴記」には、彼が1551(天文20)年に日本に立ち寄ったとき、豊後(大分県)の国だけですでに3万挺、日本全国には30万挺の鉄砲があると聞いたと記されている。

■ この日付は鉄砲伝来から、たった8年後のことである。はなし半分、いや10分の1としても実に驚くべき数であろう。そしてこの中には、相当量の和製銃が含まれていたことになる。これほどまでに迅速な和製火縄銃の伝播を促した背景からは、何が読みとれるだろうか。それは、この模製から大量生産までを技術的な部分でささえていた、当時の刀鍛冶たちの実力であろう。古来より日本では刀剣は武士の魂とされ、刀鍛冶はこの鍛造に心身ともに捧げ、宗教的ともいえる程の修練を重ねていた。その磨き上げた技法の基盤となったのは、砂鉄から和鉄を製錬するタタラとよばれる製鉄法や、農具漁具にいたるまでのさまざまな鍛冶技術の蓄積であった。

■ 世界のオートバイ史に名を残したメーカーの中には、前身が19世紀からの自転車メーカーだったという製作会社がじつに多く、さらにそれらの由来をたどれば、製銃所から始まった古参も多い。製銃から自転車、そしてオートバイへと転換した会社として有名なものには、BSA(英)、ロイヤルエンフィールド(英)、FN(ベルギー)、ハスクバーナ(スウェーデン)、アイバージョンソン(米)などがあげられる。

■ これらと同等に並び称されるべき日本のオートバイメーカーが、宮田製作所(昭和38年より現在の宮田工業株式会社)である。宮田製作所は、1913(大正2)年には早くもトライアンフ(英)を模倣した試作車旭号を完成させ、1935(昭和10)年からはアサヒ号軽オートバイ175ccの量産を開始したわが国オートバイ工業のパイオニアのひとつである。戦前期の国産車では、トップメーカーだった。

■ 宮田製作所の前身は、初代宮田栄助(1840〜1900)によって1881(明治14)年に東京京橋に開設された宮田製銃所である。宮田栄助とは、水戸藩の鉄砲指南役をつとめる国友家に師事して製銃技術を身につけ、常陸国笠間藩のお抱えとして苗字帯刀を得た鉄砲師であった。それが明治維新の廃藩置県(明治4年)により雇用を解かれ、上京して自営の製銃所を創業したものである。

■ 宮田製作所の発展の背景には、明治政府の富国強兵、殖産興業政策を受け、最新の輸入工作機械を購入して近代的な製銃工場を築き、さらに新しい分野に乗りだすという、明治ならではの対応を見てとることができる。その技術力の基礎には、鉄砲鍛冶の伝統があったことも、否定することはできないだろう(一つの例として銃身をまっすぐなものにする技術が自転車のパイプの製作に役立ったのではないかとも言われている)。また明治期には大阪の堺でも複数の自転車工場が自然発生的におこっていた。堺の自転車工業の盛況は平成の今日にも続いているが、これも16世紀後半から、泉州堺の地で栄えた鉄砲鍛冶技術を礎として発展したものである。

■ 火縄銃が日本各地で大量に、しかも急速に生産されていったのも戦国時代の戦乱があったからだといわれている。文明の進歩や科学の発達には必ず戦いが含まれていないだろうか。日本の戦後復興が1950年の朝鮮戦争にあるように、あらゆる時代の争いが皮肉にも科学の発達に力を貸していることは、どうしようもない事実であろう。
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