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● 近代の歴史と車
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第2章 T型フォードの台頭

by葛原 怜

■ 20世紀の車の中で最も象徴的な車は何であろうか。20世紀初頭、自動車は一般人にはまだまだ高級な存在であった。そんな中、世界に車の存在を身近なものに変えた人物がいる。その名もヘンリー・フォードという。彼はいかにして車にかかるコストを削減するかを考えた。そこでフォードは、Aチームは車のねじだけを作り、Bチームはエンジンだけを作り続けるというようにまず、部品の互換性を確保したのだ。

■ この頃でも部品数は五千種以上を超えていたようであるが、測定を厳密にすることで、一種類の部品であればサイズも形も全く同じように作れるようになったのである。そして、どの車にもがっちり合う部品ができていったのである。手工業生産(AチームだけでA型車一台)だと車が違えば部品もわずかな違いで使えなかったが、フォードのやり方によって改善された。

■ 車の組立はシャーシにタイヤを付けて車同士チェーンでつなぎ、ゆっくり動き、一定の順序で部品を付けていく。この流れ作業行程を細かくして分業を徹底させ、部品供給の順番をいかに効率よくできるかを研究した。やがて車同士をチェーンにつないで引っ張るのではなく、ベルトコンベヤーを導入した。合理化によって手工業生産では一台の平均12時間28分かかった生産が、一年後には1時間33分、12年後には10秒でできるようになったのである。

■ フォードは精肉工場のパッケージ作りの流れ作業を見ていて、この生産方式へのヒントを得たものだと伝えられているが、これにより車一台の価格が850ドルと、他社は安くても千ドルはするのを考えると、驚くべき低価格へとなったのである。T型フォードは、質のよい素材の部品のため堅固で壊れず、操縦もスピードのコントロールも容易、修理も簡単、馬力があり悪路でも走り、しかも軽量、すべての飾りをそいだ簡素な合理性、そして何よりも低価格という特徴があった。運転のハンドルの位置も車内の右側から初めて左に移された。フォードは明らかに自分が生まれ育った農業地帯の農民たちのニーズをまず念頭においていた。

■ T型フォードの価格は当初、850ドルだったが、それでも爆発的な人気を呼んだ。他の乗用車は二千ドル前後という時代だったのだ。フォードはT型の売れ行きに応じて価格を下げ、発売の翌年には690ドル、その四年後の1913年には他社の約半額の550ドルで販売し、1920年代には275ドルにまで下がっている。

1台のT型フォードの値段

■ T型の生産や販売の伸びはすごかった。T型が登場した1908年のアメリカでは自動車の年間生産が6万3500台、うちビュイックが8500台で最も多く、フォードとかマックスウェル、キャデラックという会社がその後を追っていた。メーカーの数は多く、フォードのシェアなど10%を少し超えるほどだった。しかし、この年全米で登録されている車の合計も40万台にすぎなかった。

■ そんな中、1914年にはT型の1年間の生産だけで30万台を超えた。その2年後には年間58万台、1925年には202万台の年間生産記録が樹立され、T型一車種だけでアメリカの自動車市場全体の56%を占めるという異様な状況にまでなった。T型は結局、総計1600万台近く生産された。

T型フォードの伸び

■ 1902年のアメリカでは車1台当たりの人口は150万人だったが、T型がデビューした翌年の1909年には1台当たり800人にまで普及率は上昇した。1920年にはT型の年間販売が200万台を超え、アメリカ全体の新車販売の半分以上に及んだ。この車の普及は特に、農村部に広く及んだ。

■ フォードが大衆、特に農村部の大衆のための車を作ることに全力をあげたのは、彼自身が少年の頃から肉体を酷使する農作業を憎むほど嫌っていたからであったと言われている。T型フォードは農民を果てしない単調な難作業や汚れた馬の世話から解放した。この車は、ぬかるみの悪路でも険しい丘でも農具を運んで走ったのである。

(http://sspj_no1.tripod.co.jp/semina/ford.htmから)

■ フォードが生み出した『大量生産』は20世紀の工業をまさしく象徴するようなものへとなっていった。ベルトコンベヤーを用いた流れ作業による時間短縮・能率向上は、世界中の工業に応用されていった。後に、その『大量生産』体系を『フォーティズム』と人々は呼ぶようになったのである。

■ フォーティズムの大きな特徴は二つあり、その一つは製品の標準化と移動組立法によって製品を大量生産することである。もう一つは、研究開発・設計・エンジニアリングといった構想部門と、部品製造や組立などの実行部門を分離したり、生産工程を細分化したりしたことである。つまり徹底的に合理化された生産システムと、構想部門に携わる少数の知的労働者と製造に携わる多数の肉体労働者の分業システムが確立したのである。

■ こうして機械的に大量生産が行われるシステムが整うと、生産性が上昇し、労働者の実質賃金も上昇し消費と投資が拡大する。それによって規模の経済やイノベーションも進み、さらに生産性が上昇する。その生産性の上昇によって再び賃金が上昇するという過程が循環的に繰り返され、拡大再生産を続けるのである。しかし、後にフォーディズムは市場において通用しなくなるのである。

■ 1908年にフォードがT型によって大量生産を開始し、安価で単純化された車を提供し、車に対する需要を大きくのばした。1929年には戦前のピーク459万台の乗用車需要を持つに至ったが、一方で上級車へのニーズも高まり始めたのである。GMはこの動きに対し、『上級移行マーケティング』を採用し大量生産との組み合わせにより販売を拡大した。

■ GM(ゼネラル・モーターズ)の創始者であるデュランは、自動車は服飾と同じく、デザインと広告とモードの商品であると考えた。デュランはデザイナーのハ−リー・アールを副社長にし、『自動車は見かけで売れる』という原則を確立する。そして、アールは3200万台の自動車をデザインし、自動車の生産様式そのものの考え方を変えたのである。そうすることで、1931年以降の乗用車販売で不動の第一位を確立した。

(参考:『日本自動車産業の発展分析と展望』 著 松浦茂治)
(参考:『現代社会の理論』  著 見田宗介)
http://www.ops.dti.ne.jp/~cactus/economy.htmから)
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