§1 フィンランドの特異性
■ 一般に情報社会では社会的不公平が増大する。なぜならグローバルな情報経済は確実に格差を生み出し、利用できない環境にある者は知らず知らずのうちに不利益を被ってしまうという性格を持っているからだ。そのため情報社会の推進を進めている先進諸国では共通してこの問題への対策に尽力している。それでも社会的不公平に繋がる所得格差は拡大し、福祉国家の破綻の引き金となる社会保障費は年々肥大化を続けているのが現状である。
■ その中でフィンランドが注目されるべきは、同国が情報社会の推進役でありながら社会的不公平が他の先進諸国に比べて著しく低いレベルにある点である。社会的な不公平は客観的に捉えにくい性質のものではあるが、例えば刑務所収監率からもある程度の比較をすることはできる(下グラフ)。生活に困窮した人間が取る最終的な生存手段はおそらく犯罪であり、また犯罪の多い社会がより社会的排除が行われやすいと考えられることから、刑務所収監率は社会的排除を表す指標の一つとなっている。

出典:UNDP(2000)
■ また客観的に測定することが困難な社会的不公平を表すものとして(所得分配の)ジニ係数がある。これは所得の不平等度を測定するもので、係数の1の値が絶対的な不平等を意味し、反対に0の値に近いほど平等な状態を表す。ジニ係数は社会における所得移転の状態や所得格差を分析・比較する際の代表的な指標の一つである。
数値は参考文献「情報社会と福祉国家」より
■ これらの指標を比較する限り、フィンランドが社会的排除、ならびに社会的不公平に対してより福祉的であるといえよう(比較相手の米国、シンガポールは世界で最も競争力が高いとされている情報社会推進国家)。さらに伝統的に福祉国家に求められる労働の集団的保護においても、グローバルな方向として労働組合率が著しく低下している中、フィンランドでは高い労働組合加入率によって労使関係システムが機能し続けられている。
■ 実際に情報経済への移行段階の推移を比較してみるとフィンランドの方向性は確かなものであることがわかる。下のグラフは情報経済への移行が始まったとされる1970年代からのジニ係数と刑務所収監率の推移であるが、米国が数値を急増させているのに対しフィンランドは断続的に低下させていることが確認できる。1990年以降もフィンランドは若干の増加はあったにせよ、依然として相対的に低い水準を達成している。米国のグラフに代表されるグローバルな流れに逆らい、フィンランドはその特異性を発揮し続けてきたのである。
| グラフの説明: |
それぞれ右軸の折れ線はジニ係数、左軸の棒グラフは刑務所収監率を表す。
数値は参考文献「情報社会と福祉国家」より |
§2 「更新」される福祉
■ フィンランドがこのように他の先進諸国とは異なる性質の情報社会を構築できている理由はどこにあるのだろうか。第一には情報経済における国際競争力の高さ、そして経済の成長性である。国の福祉を存続させるためには歳入がなければ成り立たないのは当然だが、フィンランドの情報経済は福祉国家のコストを賄うだけの経済成長をクリアしてきたのである。つまり情報経済で成功を収めることが高水準の福祉サービスを可能にさせるという関係になっているわけである。
■第二は優れた社会環境の構築である。フィンランドでは充実した公的サービスとしての教育、医療、社会保障が整っているが、これにより多くの人々が高度な教育を受け、良好な健康水準を維持することができる(同国の社会的不公平が低いレベルにあるのはこのためである)。そのため国民は福祉重点政策とその基盤としての経済発展に対し深いコミットメントをしており、1990年代前半の不況時にも情報経済へのシフトを推し進めることができたのである。手厚い公的サービスにより福祉国家への高い支持を集め、そして国民は福祉サービスの源泉となる情報経済の中で働く事で再び手厚い公的サービスを受ける、という情報経済と福祉国家との理想的な循環が根付いているといえるだろう。
■ しかしながら、以上のことは他の先進諸国も以前から目指していることである。そこで次にフィンランドの情報社会における福祉を見てみよう。フィンランドの福祉、とりわけ新しい福祉のスタイルは、単に経済が悪化した場合の影響を緩和することを前提とした旧来の福祉のスタイルとは一線を画するものである。それは情報の科学技術の社会的利用とネットワークを通じたイノベーション機能を有した福祉国家構造である。
■ 医療ケアの分野では特に情報の科学技術の利用が盛んだ。社会保険省の独立機関であるスタケス(社会保険分野総合研究センター)が中心となり、福祉ネットワークの構築を急いでいる。高齢化が進むフィンランドでは高齢者を消費者として位置づけ、高齢者が活動しやすい環境を整備することで社会の相互作用をより活発化させようとしている。代表的なものではマクロ・パイロットと呼ばれる福祉プロジェクトである。これは高度な科学技術により在宅ケア・システムを発達させたもので、利用者の通院・入院を最小限に抑え、自立した生活を支援することに効果を上げている。さらに電子個人登録カードの発達により医師側の情報ネットワークが構築され、より円滑で効果的な医療サービスの提供を可能にしている。福祉サービスへの情報技術の巧みな利用が、新しい医療ケアサービスの扉を開くのである。
■ 教育にも非常に力が注がれている。フィンランドの教育といえば無料、普遍的、公共的という特徴があるが、情報社会に即した新しい試みも次々に行われている。例を挙げるならばバーチャル教育の推進やインターネット識字、全教育機関と図書館のネットワーキングなどがある。とりわけバーチャル教育は進んでおり、すでに中等教育の授業の大半がインターネット上で学べる。バーチャル大学などの実験にも積極的だ。
■ そして福祉に限らずすべてのフィンランドの社会環境を機能的にしているのは、市民のイノベーション主義(ハッカー主義)にある。社会的な諸問題に対しフィンランドの市民は情報を共有しあってアイデアを出し合う。オープン・ソースのリナックスの開発原理と同じで、情報コードを共有することで多くの人々によって開発されているのである。
■ アカデミアと呼ばれる学習プロジェクトは、学習プロセスにイノベーションの理論を取り入れている。学習を効果的に行わせるための条件としては、
| (1) |
学習者が学習に対して好奇心を持ち、積極的に理解しようとすること |
| (2) |
様々な情報源から情報を取捨選択し、自ら設定した問題への解決をはかること |
| (3) |
共通の目的を持った仲間と学習プロセスを共有し、相互に意見をぶつけ合いながら目標達成に近づいていくこと |
以上のことが有力である。この学習モデルを教育の現場に応用することで、詰め込み型では得られにくいとされる創造的な力の育成を目指すのである。
■ フィンランドではこのような社会的なオープン・ソース・モデルが福祉国家としての機能を高めることに大きく貢献している。すでに政府だけに頼らず、企業、大学、市民といった様々な分野の専門家たちがより良い社会を築こうと知恵を出し合う土壌が形成されつつある。もちろんまだ完全なプラットフォームが完備されているわけではないが、情報的な福祉国家を目指してネットワーク組織を利用したダイナミックな市民社会を構築する動きは確実に拡まっている。
§3 まとめ
■ フィンランドの福祉国家としてのパフォーマンス、ならびにネットワーク企業としてのノキアの国際競争力の源泉は様々な要素から構成されているが、なかでもイノベーション主義(ハッカー主義)によるところが大きいと思われる。日本でこのようなモデルを探してみると、トヨタ自動車のカイゼンが機能的に近い気がする。熟練労働者が常に作業効率の向上に目を光らせ、作業工程を更新していく様はトヨタ・モデルとして世界に衝撃を走らせた。現在のトヨタが成長力、技術力、収益力などあらゆる面で世界最大の自動車メーカーである理由も、カイゼンに見られるトヨタのDNA、つまりイノベーション主義にあるのだろう。
■ それでは社会的なイノベーション主義が日本で普及することはあるのだろうか。その契機と成り得るのが最近ブームのブログではないだろうか。ブログのトラックバック機能は多くの人の意見をリンクさせ、爆発的にネットワーキングさせる力がある。それこそ様々な立場の人々が自由に意見交換でき、時間や空間を越えて繋がることができるのだ。まだまだ発展途上の段階ではあるが、ネットワーキングによる社会問題への市民参加の方法として政府がイニシアティブを発揮しプラットフォームを構築することもできるだろう。ブログという社会現象を契機にして、情報の共有性が持つ潜在能力を最大限に発揮できる社会環境を整備することができれば、日本社会も大きく変わる可能性がある。
| 参考文献: |
「情報社会と福祉国家」(2005年 ミネルヴァ書房) 著 マニュエル・カステル/ペッカ・ヒマネン
「情報社会モデルと新しい日常生活」(2003年 早稲田大学国際会議場)
「北欧の政治」(1998年 早稲田大学出版部) 著 オロフ・ペタション |
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