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第一章 株式投資の歴史 |
by葛原 怜 | |||||||
§0 はじめに■ 『株式会社』という言葉は常日頃、よく目にするであろう。新聞や街中の看板など、有名企業の詳細名を聞くと「株式会社」と語尾についていることも多い。新聞やニュースで「株式」について様々な数値が報道され、時には株によって大儲けをしたというニュースが耳に入るということもあるであろう。 ■ さて、『株式』や『株式会社』、はたまた『株式投資』という言葉は自分の生活にはほとんど縁遠いものだと考えている人が多いのではないだろうか。一部の投資家や会社経営者のみが関係するものであるという認識が非常に強いように思えてならない。今回、その『株式投資』という言葉について考えながら、同時にその意味や歴史、さらには未来まで考えていこうと思う。本文章を読むことで、自分が生活している社会において重要な役割を果たしている「株式」というものをより身近なものとして感じてもらい、その歴史と未来についての基礎知識を知り、さらにはそれを柔軟に利用できるきっかけとなっていただければ幸いである。
§1 株式と株式会社の始まり■ 株式とは企業(株式会社)が発行する出資証券を言う。法律上は株主権を指すが、一般的には株券そのものを指して株式と呼ぶことが多いようである。株式を持つということはその企業にお金を出すことであり、間接的にその企業の経営に参加することを意味している。つまり、株式とはある企業を設立するために、その企業が発行する株券を購入し、後に利益の一部をもらうというものである。ではこの株式会社の始まりはどこにあったのであろうか。 ■ 株式会社の始まりは、1600年ごろに設立された東インド会社に起源がある。東インド会社の設立はインドの香辛料を追い求めて作られたとされている。当時「インド」は、現在のインドばかりか東南アジア、中国なども含まれてた。当時のインドには香辛料や香料、紅茶が、そして中国には絹などヨーロッパではなかなか手に入らない珍しい物産があったのである。それはインドから持ち帰ってきた香辛料が同じ重さの金と交換されたと言われるくらい希少なもので、それらがどれほど珍重されていたか安易に想像がつくだろう。 ■ コロンブスがアメリカ大陸を発見したのも、香辛料欲しさにインドを目指した結果の間違いであったし、中世の十字軍の遠征も、実態は香辛料がらみの資源戦争である。インドの香辛料、香料などをヨーロッパに輸入すれば、巨万の冨を築くことができたのである。しかし、当時インドまで行き、それらを仕入れてくるには大変な困難があった。 ■ 地理的に遠いことや海賊の襲撃、でんせん病の蔓延、原住民との交渉など、幾多の困難が待ち受けていた。インドの物産を仕入れてきたら大儲けできるとはいえ、無事に戻ってこられる確率はかなり低いものであった。この前途多難な航海でも、一攫千金を夢見る人間は存在した。しかし、彼らには資金がなく、船を買い、船乗りを雇うことができなかったのである。 ■ そんな時にできたのが『株式』である。株式を発行し、そのお金を航海の資金とする。株券を買った投資家は、帰ってきた時の利益の一部をもらうというものであった。銀行では初めから決まった利息しかもらえないのに対し、この株式では成功したときの額が大きく違うというわけである。しかも、全額投資ではないため、手軽にできるというところに大きな魅力が存在したのである。
§2 東京証券取引所から見る日本の株式市場■ 東京証券取引所の所在地である「兜町」は、東京あるいは日本の証券市場、または証券業界を示す言葉として使われることが多く、アメリカで言うところの「ウォール街」、イギリスで言うところの「シティ」と同様の使われ方をしている。さて、この「兜町」の歴史について触れてみながら、株式投資の歴史について追っていきたいと思う。 ■ 江戸時代以前の兜町付近は、一面に茅が生い茂った汐入りの沼地であった。その頃、関ヶ原の合戦で大勝した徳川家康は江戸城築城を計画したが、そのために、建築資材を乗せた大船の船着場や用材置場などの広大な土地が必要だったのである。そこで、家康は全国の武将に命じて、江戸神田山(駿河台)の一部を切り崩し、江戸湾の埋め立て工事を行うことになった。現在の兜町界隈は、このようにして江戸時代の初めに埋立てによって誕生したのである。 ■ 明治4年9月、明治維新の論功行賞として兜町界隈の土地が三井組等に下賜され、「兜町」と命名された。この町名は、江戸時代に牧野邸内にあった兜塚にちなんでつけられたと言われている。維新政府は、殖産興業策のひとつとして株式会社制度の導入を図る一方、封建遺制を整理するため新・旧公債、秩序公債などを発行したのである。これらの公債の売買が次第に活発になるにつれて、取引機関設立の機運が高まり、政府は明治11年5月4日、株式取引所条例を制定した。 ■ そして、同月10日、東京実業界の有力者であった渋沢栄一、三井養之助らは、条例に基づく株式取引所の設立を出願し、同月15日に大蔵卿大隈重信の免許を受け、ここに株式会社組織の東京株式取引所が誕生し、6月1日から営業を開始したのである。その後、政府や渋沢らの民間人によって、商業上の重要な会社や近代的な株式会社がこの地に設立され、兜町は、ビジネス・センターとして、その装いを一変した。 ■ 大正のころ、関東大震災により、東京株式取引所の建物も含めて、兜町一帯が焼野原となった後、大正15年ころから耐震耐火の建物が次々に建てられると、兜町はすっかり近代的な街並みに生まれ変わった。昭和に入って間もなく、世界的な大不況の波に見舞われ、わが国の経済は長期の不況に陥り、兜町も度重なる暴落のため、沈滞の度を深めた。 ■ その後、昭和12年の満州事変を契機に、わが国経済は戦時体制に移行し、証券市場も急速に統制色が濃くなってきました。昭和18年6月には、全国11の株式取引所を統合して、新たに半官半民の営団組織「日本証券取引所」が設立されたのである。戦後、GHQ(連合軍総司令部)は取引所の再開を禁止したが、兜町の一角では、証券業者の半ば組織的な集団売買が開始され、兜町はいち早く'証券の町'としてよみがえったのである。 ■ 一方、財閥の解体等によって凍結された大量の株式が国民に放出されるとともに、証券知識の普及を図るため全国的な証券民主化運動が行われた。そして、昭和23年4月、投資者保護を基本理念とする新しい証券取引法が制定され、翌24年4月1日、待望の会員組織による東京証券取引所が誕生、5月16日から取引が再開されたというわけである。
§3 日経平均株価から見る株式の歩み■ 「スターリン・ソ連首相重態」のニュースが伝わったのは1953年3月4日。翌5日の日本経済新聞朝刊は傍受したモスクワ放送の内容をもとに「スターリン首相重態」と伝え、さらに「すでに死去説」「各国に異常な反響よぶ」と報じた。このニュー スを受けて、東京株式市場は主力株や軍需関連株を中心に売り物が殺到、49年5月の東証再開後初めての本格的な株価大暴落に見舞われたのである。 ■ 50年6月に戦乱の火ぶたが切られた朝鮮動乱は良く知られているように、第2次大戦で疲弊していた日本経済を立ち直らせる契機になった。極東の国連軍用の資材調達によるいわゆる特需や、各国の軍備拡張機運を背景にした輸出景気で日本経済は生気を取り戻し、好景気を支えに株式市場は沸き返った。しかし、実態経済はすでに調整局面に入っていたのである。51年7月の朝鮮戦争の休戦 会議を経て、休戦機運が盛り上がるとともに、いわゆる特需は停止、52年になると生産過剰が表面化して多くの業界で操業短縮の動きが始まった。景気が調整局面に入ってからも1年あまり、株式市況は上昇し続けていたわけである。 ■ 1971年8月16日、ニクソン米大統領によるドルの金交換停止などを柱とするドル防衛強化策発表を受けた日本の株式相場はひどく動揺し、日経平均は215円急落した。下落率は7.68%であったが、下落幅ではスターリン暴落を上回り、この時点で過去最大の記録だったという。いわゆるニクソン・ショックである。さらに動揺は続き、19日までの4日間で日経平均は550円も下げ、直前の8月前半まで日経平均は高値をたどり、強気の相場展開だっただけに、株式市場のショックは大きなものであった。 ■ この頃、企業は収益が低下し、設備投資意欲は鈍っていた。貿易黒字、外貨準備の増加に伴って散布された円資金は設備投資には向かわず、遊休資金は土地や株式購入に流れていた。さらに企業の自己資金だけでなく、銀行からの借入金も投機に向かったと言われている。この結果、71年12月末に2700円台だった日経平均は72年12月末には5200円台に上昇。さらに73年1月24日には5359円という、過剰流動性相場のピークに達した。この頃の投機熱は土地や株式だけでなく、ゴルフ会員権、貴金属から宝くじにも及んだ。 ■ しかし、73年2月の再度の円切り上げと固定レート制の崩壊を機に過剰流動性相場も終わりを告げる。一次産品を中心にした物価上昇が顕著になり、73年秋の石油ショックへとつながっていった。石油ショックの勃発した73年秋は宴のあとの下げ過程。10月末の日経平均は1月高値より1000円余り下落していたのである。さらに日経平均はあと1年、74年秋の3355円まで下げていく。その後、株式相場は回復歩調になったが、73年1月高値を上回ったのは1978年になってからのこと。過剰流動性によるピークが歴史に残る高値であったことが伺えるだろう。 ■ 1987年10月19日月曜日、米国ニューヨーク株暴落に端を発した株安はまたたく間に世界を駆け巡った。東京市場では翌20日火曜日に日経平均は3836円、率にして14.9%急落した。この日の終値は2万1910円。しかも、1日の値下がり率14.9%は過去最大で、1953年3月5日のいわゆるスターリン暴落の記録(下落率10.0%)を34年ぶりに塗り変えるものとなってしまった。この下落幅、下落率とも今も破られない最悪の記録ある。 ■ しかし、19日のニューヨーク・ダウの下落率は23%に達したが、それに比べれば東京市場の下げは小幅で、その後の株価回復過程は対照的であった。年が替わって1988年、日経平均は目立って回復し始め、年初に2万1000円台だった日経平均は目覚しい上昇ぶりを見せ、3ヵ月後の4月初めには暴落前の高値(2万6646円)を上回ってきたのである。その後も株式相場は力強い動きをみせ、もたついている欧米市場を尻目に独歩高の展開であった。 ■ 株価上昇のきっかけは機関投資家の決算処理方法の弾力化というテクニカルな要因であったが、上昇にはずみがついたあとの説明は「輸出依存型経済から内需主導型経済への転換がすすんだ」「円高のプラス効果が経済の各側面に表れた」「日本経済は絶好調」など自信にあふれたものであった。投資家や市場関係者が自信を深めるにつれ、日経平均は高値を追ったが、この時すでにバブル経済はかなり進行していたのであろう。 ■ 昭和最後の年の64年(1989年)、1〜3月の日経平均は3万―3万1000円台で推移。それが4月の新年度入り前後から勢いを付け、毎月1000円大台を改める有り様となる。秋口からはさらに勢いを増し、年末の大納会には歴史的高値の3万8915円まで駆け上がった。1年前の88年12月にはじめて3万円に乗せたばかりで、1年で8800円近い急騰であった。翌年の株価を予想し、「日経平均5万円も夢ではない」などと威勢のいい声があちこちで聞かれていたようである。 ■ バブル経済の崩壊とその打撃の深刻さが多くの人にはっきりと認識されたのは1991年から92年であろう。日本経済新聞4紙(日経本紙と専門3紙)で記事検索すると、「バブル」及び「崩壊」に該当する記事数は90年には49件に過ぎなかったものが、91年には888件に急増。92年にはさらに1079件になり、深刻なトーンのものが増えてきたことがわかる。 ■ 91年の日経平均株価は2万4000円台でスタートしたあと、弱含みながら行きつ戻りつで推移し、2万3000円台で年越し。しかし、92年になると、3月に2万円大台を割って89年最高値のほぼ半値になり、さらに8月には1万4000円台まで突っ込んでいってしまった。マクロ経済では93年秋にいったん景気回復過程に入ったが、力強さに欠けて不況感が長期に渡って続いているというわけである。円相場が1ドル=80円の最高値を付けた95年、山一証券の自主廃業など金融機関の破綻が相次いだ97年とも日経平均の安値は1万4000円台で止まった。しかし、消費税や社会保険料の引き上げなど性急な財政再建政策で弱々しかった景気回復は腰砕け、貸し渋りと金融システム不安がピークに達した98年10月に日経平均はバブル崩壊後の最安値1万2879円を付けている。
(http://www.nikkei.co.jp/nkave/index.htmlから参考) ■ 本章では主に、『株式』や『株』というものがどのようなものであるのかということと、その歴史について、東京証券取引所と日経平均株価の推移を参考にしながら追ってみた。次章では本章をふまえた上で、これからの株式投資はどうなっていくのかということについてさらに理解を深めていきたいと思う。
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