§1 「思いやり」について
■日本人を語る上で欠かせないものの一つに、日本的美徳である「思いやりの精神」が挙げられるだろう。思いやりとは相手に対し同情することである。相手の身になり思いやることで、相手に何かしてあげたいと思うこと事である。
■しかしこれは相手が自分と同じ価値感情を持っている場合にのみ機能することである。相手の価値感情が自分と異なる場合にこれを適用してしまうと、それは自分の価値観を押し付けていることに過ぎなくなる。つまり思いやりはそれが間違って働いてしまうと無意識の同調圧力となってしまうのだ。悪く言えば思いやりは相手に対し自分と同じ考えを強要する行為であり、感情移入と他者理解とはこの点で異なるため注意が必要である。
■勿論、これだけを取り上げて思いやりの精神が不要であるということではない。ただこれが経済の場に持ち込まれると、日本経済でしばしば指摘され続け、またバブル経済の原因ともなった「持たれ合い、かばい合いの精神」となって表れてきてしまうのである。
■ここで重要になってくるのが、自己主張の精神である。そもそも最初から他者との同質性を前提に思いやりの精神を発揮することは間違いである。なぜなら相手に理解を求めるのに必要な、相互に主張し尊重し合う精神と思いやりはイコールではないからだ。そうではなく思いやりの精神と自己主張の精神のバランスが程よく発揮されることが大切なのである。
§2 倫理の混合
■思いやりの精神とは社会の平等化の主張であり、これは概して平等の倫理と結びつく。一方自己主張・相互理解の精神とは社会活動の自由の主張であり、これは自由の倫理に繋がるだろう。よって我々の社会が自由と平等で成り立っている限り、この二つの倫理を取り違えたり混合することはあってはならないことなのだ。
■それでは自由の倫理が叫ばれるべき時に平等の倫理が発揮されるとどうなるか考えてみよう。例えば思いやりの平等精神が本来自由であるべきはずの経済活動に持ち込まれると、それは持たれ合い、かばい合いの精神に変質してしまうだろう。そしてこの「思いやりの経済」においては談合や株の持ち合い、護送船団方式などが横行し数々の弊害が生まれることになる。
■このように平等の倫理が自由の倫理に混合されると、多くの社会的弊害が生まれてしまう。しかしここで問題なのは平等の倫理の混合が弊害をもたらすことではなく、それが様々な場面で損失を被ることがわかっているにも関わらず、日本社会においてなかなか改善が見られないことだ。それではそれは一体何故なのであろうか。
■おそらくその最大の原因は、日本社会がこの平等の倫理の混合を慣習化してしまっているということにあるだろう。しかも慣習化したことにより今度はその弊害を逆に利益にする人が増え、反対にそれを是正する動きは不利益になるということで排除されるのである。そして社会全体で見れば弊害であることも一部の利権者にとっては有益とあり、それを正当化するための理屈として平等の倫理が持ち出されるのである。
■このような我々の行動を考えると浮かび上がってくるのが、日本社会に蔓延る「生活の横並び意識」の存在である。これが平等の倫理をさらに刺激し、そして自由の倫理を取り入れさせない要因になっている。
■この横並び意識、古くは我が国における「村八分」という制度が同質的社会の起源となっていると考えられる。村八分に対する恐怖が、各人の生活の多様性を失わせてきたのだ。また開国という経験が外圧に対する排外主義的な攘夷運動を招き、それが日本人の深層心理に閉鎖性を生みつけることになった。これらが戦後日本社会で掲げられた一億総中流意識などの背後にある意識であり、思いやりの精神や同質的な平等思想を生み出してきたのだ。
§3 日本人の倫理観
■こうしてみると、日本社会をより良くしていくためには平等の倫理や思いやりの精神だけでなく、もっと自由の倫理を様々な場面で使っていくことが重要であると気付く。要するにいまの社会の平等倫理偏重を改善し、自由と平等の倫理のバランスをうまく取っていくべきということだ。
■しかし「生活の横並び意識」がその深層心理に埋め込まれている日本人に、意識改革を行わせるのは容易なことではない。それでも高度経済成長期のように人々が一つの目的に向かって一丸となって走り抜ける時代が終わり、人々の多様性が重要視され始めた現代においては生活意識を変える必要がある。
■まず自由の倫理を身に着けるためには自分の生活をしっかりと持たなければならない。そして自分の生活を向上させるよう、それぞれが自己主張していくことだ。その上で、思いやり、平等の意識が多様性を理解する役を担えばいいわけで、それが相互尊重の文化を形成するのである。こうしたバランス感覚の取れた生活意識を日本人の倫理観として定着させることができれば、我々の社会のさらなる発展は可能なはずだ。
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