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● 自由とはなんだろう

第3章 価値観の多様性

by飯田 耕平

§1 「正義」について考える

■「正義とは何か」、この問いは古代ギリシャのソフィスト以来の法哲学における基本問題である。また現代の様に価値が多様化し複雑化した社会においては、特に善悪をはっきりと分けることで整理したいという願望が少なからずあるようだ。しかし正義という絶対的に正しい価値が存在し、その前ではいかなる考えも優先され、正義によってあらゆる社会生活が規制されるべきだという考え方が誤りであることは、歴史が証明していることである。

■自己の感じ方と他者の感じ方に違いがあることを認識すること、これは正義を考える上で最も重要な大前提の考え方である。現実に様々な感じ方を持った人々が等しく存在することを認め合い相互交渉する中で、社会生活を営むために必要であるフェアな(バランスが取れている)ルール感覚を見出すこと、これが正義である。

■自分とは違う他者と向き合い、さらに他者と違う自分とも向き合うこと、これは現代を生きる我々において非常に必要なことではなかろうか。常に他者の存在を意識し、共生の道を探ることで、より良い社会にしていこうとすることが大事なのである。これが正義という考え方を実践していくことに繋がるのだ。そしてその実践の積み重ねが、一つの善が全体にいきわたった社会ではなく、様々な善が生かされているような社会を構築していくことにも繋がるのである。

■ここで注意しておきたいことは、正義を追求するというのは単純に法律を遵守することではないということだ。なぜなら上述した正義のルール感覚と法律は等しく同様のものではないからだ。むしろ正義のルール感覚とは法律の上位概念であり、実定的ルールの健全性の基礎となる社会的な感覚のことである。

■一方、我が国には古来より義理人情という言葉がある。これは日本人の国民性を見事に表現している言葉の一つであろう。これを誇張した一種のイデオロギーとして、日本=同質社会論という立場がある。日本の政府もしばしばこの考えを利用し政治に活かしてきたことも事実である。

■我が国では政府自身が自らを人情味豊かな政府と称して、政府が国民の生活に干渉することが少なくない。しかもその行動が福祉国家のイメージと重なることが多く、国民は政府への依存を強める事にも繋がっているのだ。しかし豊かな人情味を発揮するのは政府ではなく国民が発揮するのが理想である。それにも関わらず国家が福祉の名目のもとに特定の「人情」を強要しているのなら、国民はそれを拒否するべきだ。人情とは国民一人一人が自発的に発揮すべきなのである。

■しかし我々が発揮する人情や思いやりは様々である。そこで多様な人情の相互交渉と相互調整のために、我々は一人一人が他者と向き合う必要がある。ここで他者とのコミュニケーションが不可欠となるのだが、このコミュニケーションの根底を支えるのが正義であり、正しさのルール感覚なのである。

§2 欧米流の正義との相違

■欧米流の正義の観念を少し考えてみよう。理性を持った正しい市民が集まって正しい法律を作り、それにしたがって生活をすることが理想の市民社会であるとするのが一般的な欧米の正義であるが、一方でこの考えはある意味で理想主義、あるいは原理主義という側面も有している。

■原理主義とは、ある原理・考えを徹底することが絶対の善であり理想であるというような考え方を指す。そのような社会の中では、正しい人しか生きられないばかりか、その考えが理解できない人は抑えつけられ排除されてしまうだろう。このような社会が果たして絶対的に善い社会であるといえるのであろうか。

■欧米の正義論の代表としてプラトンが挙げられるが、そのプラトンは『国家』の中で正義とはすなわち善のイデアと呼ばれるあらゆるものの完全な調和であり、それを市民生活に浸透させることで人間は真の幸福を実現でき、それが理想社会のあり方であると説いた。

■しかしプラトンの示したこの理想社会は息苦しい社会であった。そこでは人々の自由が生み出す変化はすべて規制されるのだ。子供でさえ新しい遊びをすることが禁じられてしまう。なぜなら変化とは社会の調和にとって最も危険なことだからである。この意味でプラトンの主張した社会は、善のイデアによって規制された原理主義的な社会であったのだ。

■経済合理主義を説き、功利主義を主張したベンサムの立場にも、同様の息苦しさが垣間見える。彼は「最大多数者の最大幸福」という善を実現する社会こそが絶対の正しさであるとし、それ以外の考えを排除したのだ。つまり一見、人々に幸福追求の自由を与えているように見えるこの考えも、大多数者の平均的な幸福を最大化することが目的であり、実は平均的幸福にそぐわない個性的な幸福は否定されることになる。要するにベンサムは人々に平均人であることを強い、そこから逸脱した人は非効率の存在として排斥するような社会を主張したことになるのである。

■このようにプラトンにせよベンサムにせよ、正義と善を同一視し、その善を社会全体にいき渡せることが人々の幸福を実現するために重要なのだとしている。しかしその結果は、大多数の幸福者は生み出しても、大勢から外れたマイノリティの幸福はまったく考えていないことになる。

■勿論、このように正義を否定し、いかなる正義も無意味だと排斥することも、一種の原理主義的様相を見せる考え方に陥ってしまうだろう。正義を徹底的に排除する社会は、正義を徹底的に貫く社会と等しく息苦しいのである。

■また人々に自由を与えすぎてもうまくいかない。正義は力であるというような社会を想像しよう。この状態はまさしくトマス・ホッブズが主張した「万人の万人に対する闘争」である。人々が自らの自由のみを追求すればそこには秩序は生まれず闘争状態に陥るというものだ。

■こうした正義、あるいは反正義の概念に対して、正しさのルール感覚というものをもう一度考えてみよう。このルール感覚は単なる原理主義に陥ることはない。正義と善を同一視せず、正義を徹底的に肯定することも否定することもどちらも善くないと考える。そして善は多様であり、多様な善を調整するためのルール感覚が正義であり、人々は各々の善を追及しながらも他者の善も許容するルール感覚を共有することが重要なのだ。このような考えに立ってみると、正義の本質とは人情や善の徹底ではなく、多様な善への許容、寛容であることがわかるだろう。

§3 寛容な正義が存在する社会へ

■寛容な正義が通用する空間、多様な善を許容するルール感覚が通用する空間が存在する社会は、そうでない社会より望ましい。そこで我々の社会にこのような空間が存在するのかを考えてみると、それは民主主義に内在する議論の精神や市場経済の本質である取引と交渉の精神に潜在しているといえるだろう。

■もちろん民主主義の大原則である多数決の理論や、市場経済における弱肉強食の理論は必ずしもすべての価値観を許容するものではないと考えられる。しかし民主主義においては少数者=弱者の保護を重視するような風潮が生まれてきているし、市場経済においては一度弱者とされてからもそこから試行錯誤をすることでまたセカンドチャンスを与えられるという仕組みが確立されつつある。

■しかし多様な価値観を許容する社会の実現という意味ではまだまだ時間が掛かりそうだ。民主主義においては多数決で弱者にされたものを単なる保護の対象で終わらせるのでなく、さらに一歩踏み込んで多様な善の一つとして尊重し相互に認め合えるようなシステムを構築できるように模索する必要があるだろうし、市場経済においても生存競争と多様な生活の共生とのバランスをもう一度模索し直す必要があるだろう。

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