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■ 坂本龍馬と福沢諭吉、我々が幕末の彼らに抱くイメージは対照的なものである。差し当たり龍馬が「幕末から維新を駆け抜けた行動の人」であるとすれば、諭吉は「西洋の書物と格闘した著書翻訳の人」であろう。
■ しかしこのように対照的なイメージを持つ両者であるが、二人の生活上のエピソードや著作物から彼らの思想のエッセンスを探ってみると、驚くほど生き方や哲学に共通点があることに気付かされる。
■ 端的に言えばそれは「お上意識からの脱却」である。しかし重要なことは、彼らの場合、それが単なるスローガンではなかったということである。なぜなら彼らは自発性と多様性を重視する「哲学」を持っていたからである。そして龍馬と諭吉に共通する生き方あるいは哲学は、生活における自由の倫理の模索であった。
■ それは以下の三点に要約される。
(1) 独立生計を目指すこと
(2) 権威に勇気を持って対処すること
(3) 未知なるものへの好奇心を発揮すること
実はこれらを学ぶことは、我々が現代の日本社会において生活の倫理を構想するに当たり、非常に多くの示唆を与えてくれる有意義なことなのである。
§1 「独立生計を目指すこと」
■ 独立生計とは、龍馬と諭吉にとって一貫した生活原則であった。多くの人が政府に依存しようとした明治維新の時にあっても、彼らは社会において自立しようと志し、独立生計の道を模索していた。お上への依存意識からの脱却である。むしろ彼らにしてみれば明治政府とは単に徳川幕府という封建的な存在物、つまり人間交際を阻害する存在物を除去するための手段であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのである。
■ 二人の独立生計の確立とは、龍馬の場合では亀山社中を、諭吉の場合では慶応義塾を指すであろう。亀山社中が特定の藩や幕府に依存せず、独自の結社であることを貫こうとしたことはよく知られているし、慶応義塾においても諭吉は教授が仕事をして生計を立てることは当然として授業料を徴収する事を決めている。また龍馬も諭吉も共に周囲からの再三にわたる新政府の官職の申し出を断わっており、ここにも両者の独立生計の精神が垣間見える。
§2 「権威に勇気を持って対処すること」
■ 勇気とはどういうことか。この場合の「勇気」とはもちろん無謀さや狂気を指すのではない。龍馬や諭吉の勇気とは「権威を恐れない勇気」「権威を作らない勇気」のことである。換言すれば自然体で権威に接するということになる。「権威を恐れない」とは、権威に学びつつ、それに遠慮なく修正や工夫を加え、自分たちの生きている時代や社会に適したものにするという姿勢のことである。
■ 「権威を作らない」とは、古い権威を否定するために自らが支払った労苦の代償として新たな権威の座を求めないという意味である。同時に自分たちの功績を率直に主張しつつも、後進によって越えられるという事実を素直に受け入れる勇気を持つことでもある。
■ それでは彼らの権威に対する姿勢とは一体どのようなものであったのだろう。幕末から維新にかけての日本において、権威として受容され、権威として用いられた万国公法に対する彼らの姿勢を見てみよう。
■ まず龍馬であるが、彼ほど権威というものに対して見事な距離感を心得ていた者はいない。権威に無頓着というわけでもなく、権威に埋没するわけでもない。もちろんいたずらに否定することもない。ただ自分の信念のために利用できるのであれば利用し、妨げになるのであれば対抗する。これが坂本龍馬の権威に対する基本的姿勢であった。
■ さて龍馬の万国公法に対しての姿勢についてだが、いろは丸事件での龍馬の活躍を参照するのが便利である。龍馬はいろは丸事件の解決にあたったが、その際に万国公法の規則に訴えて解決しようとはしなかった。彼は万国公法を絶対的な規則として捉えず、規則を生み出すための新しい作法として捉えていたからだ。すなわちそれは各藩が対等な立場で主張し合う、ひいては諸外国と自由に貿易するための新しい作法である。つまり万国公法とはこの意味で交易と交渉の作法であった。これが龍馬にとっての万国公法である。
※いろは丸事件 1867年4月23日、讃州箱崎沖にて、土佐海援隊の船「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が互いに正面から衝突し、いろは丸が沈没した事件。事故後は双方が相手方の責任を主張、紛糾したが、交渉の結果、土佐の海援隊側が勝利した。
■ 実は福沢諭吉も『唐人往来』において、万国公法を交易と交渉の作法と捉える考え方に近い立場を採っている。またその後『西洋事情外篇』、『文明論之概略』と出版していく中で、彼の交易と交渉の作法としての万国公法という考え方は次第に明確に打ち出されることになる。諭吉は文明諸国の交際には、商売と戦争という二つの作法が必要と表現している。
■ 要するに諭吉も龍馬も、日本は商売と戦争の二か条や交易と交渉の作法としての万国公法を駆使する事によって、西洋の文明諸国と肩を並べることができると考えたのである。諭吉はこれを富国強兵と表現しているが、従ってこの富国強兵とは単なる排外的なナショナリズムではなく、西洋諸国と肩を並べるために日本が多様な方法で交易と交渉を積み重ねるという現実主義的な戦略論なのである。勿論これは龍馬の万国公法に対する精神と共通している。
■ 万国公法や富国強兵自体は単なる現実主義的な作法や戦略であって、絶対的な権威あるいは目的ではない。むしろそれは自国独立という目的を達成するための手段でしかない。これは明治政府が「万国公法」を宗教上の権威であるかの如く扱ったことや、「富国強兵」が国民統合のための絶対的な国家目的となっていったことと好対照をなしている。
§3 「未知なるものへの好奇心を発揮すること」
■ 人間は誰しも好奇心を持っている。しかし同時に誰しも日々の習慣の中で生きている。そこで重要なのは、龍馬と諭吉のように日々の現実に生きながら習慣に埋没することなく、未知なるものへの開かれた心を持ち続けることである。日々の現実の中で開かれた心を持ち続けるためには二つの要素が大事になってくる。一つは「未知なるものを積極的に受容する、寛容で開かれた社会への関心」であり、もう一つは「自分の言葉で納得いくまでものごとを理解しようとする姿勢」である。
■ 諭吉の例が分かりやすい。彼は開かれた社会への関心を大ベストセラーの『西洋事情』や『西洋事情外篇』によって表している。『西洋事情外篇』では自由経済こそが経済本来のシステムであり、社会主義的な統制経済には限界があるという趣旨が論じられている。これは上述した二つの要素の前者に相当するだろう。
■ 次に後者の要素であるが、それは彼の新知識に対する姿勢に顕著に表れている。彼は西洋の新知識を単に受領するのでなく、常に自分の言葉で理解しようと努めていた。societyという英語を「社会」ではなく「人間交際」と訳したという有名な話があるが、これは彼の実践的関心の深さをよく表している。彼は身分制的な人間関係に縛られていた当時に、人間交際という新しいコミュニケーションのあり方を表現しようとしたのである。
■ また諭吉は当事流行した道徳偏重主義を批判する際に、知識のない善人が社会に害悪をもたらす例としてヨーロッパの宗教的狂信を紹介し、それを幕末の水戸の党争に重ねて説明した。これにより彼は西洋の新概念を紹介すると同時に、西洋での出来事は先進的な別世界のことなんかでは全くないということを、敢えて当時の日本の攘夷行動という社会的コンテクストの中で扱うことによって意識化させたのだ。このため人々は宗教的狂信という概念が自分たちの社会にも存在することを自覚し、しかも今まで漠然と不安視していたものを宗教的狂信という概念によって理解する事が出来た。これは自らの言葉で自らの社会を理解しようという諭吉の姿勢を示すものである。
§4 龍馬と諭吉から学ぶこと
■ 日本人はもっと自由の倫理を重要視すべきだ。いまの日本人に足りないのは、社会において自由に振る舞うための倫理を身に付けることである。それにはまずお上意識からの脱却が必要である。しかしただ脱却するだけでは事足りず、その後が肝心である。脱却したがその後どうしていいか分からないでは、結局お上に助けを求めることになり、むしろお上への依存心を強めてしまいかねない。
■ そのため、お上意識からの脱却後は生活倫理の確立(生活の中で平等の倫理と自由の倫理のバランスを追及すること)をしなければならない。ここでより重要なのが自由の倫理の追求だ。なぜならこれまで日本人は平等の倫理を強調するあまりそれがもたれ合いに変質し、ひいては政府に対する依存を助長する原因となってきたからだ。よってバランスの追求とは自由の倫理をより強調することであり、自発性を発揮した人々が多種多様な生活を送る中でそれを互いに尊重するということではないか。
■ これまで龍馬と諭吉の哲学を見てきたが、まとめると次のようになる。
A)人間がそれぞれに当たり前の仕事をすること
B)Aを交易と交渉の多様な工夫によって行うこと
C)Bの過程で未知なるものを自分の言葉で受容し、生活の中で生きた知恵として活用すること
これらを実行することが自由の倫理を大事にするということである。そしてその一つ一つの実践から、いわば意図せざる結果としてお上に依存しない生活のルールが自然と出来上がってくるのだ。そしてこれは現在の我々が生活の倫理の確立を模索するときの原点となっているのである。
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