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| 「教育と経済」考 §008 小学校における英語教育 |
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2006年4月6日 |
| ◆ 2006年3月27日、中央教育審議会初等中等教育分科会 教育課程部会 外国語専門部会(第14回)が開催された。すでに多くのマスメディアがこの部会の審議内容について報道しているから、そのことについて今さら説明するまでもないだろう。
◆ ただ、マスコミの取り上げ方も、審議の資料で扱われている内容も、これでは役に立たないなと感じた。英語を教科として小学校高学年から実施しようということに関しては、もとより賛成だし、むしろ遅かったのではないかと思うほどだ。 ◆ それにしても、そのことに対して異論がある見識者たちも多いようだが、彼らの言うことは全く意味がわからない。英語より国語だ、日本の文化だと声高に叫んでいるが、英語教育を小学校時代にやっていない時代に、どんな品格のある日本語を私たちは使っていたというのだろうか。まさか江戸時代や明治時代は使っていたが、今は違うなどというボケた議論をするわけではないだろうな。 ◆ 文化もそうだ。いつの時代の日本文化を「日本の固有の文化」などと設定しているのだろうか。平安時代なのだろうか、鎌倉時代なのだろうか、安土桃山時代なのだろうか、江戸時代なのだろうか、明治時代なのだろうか、平成でもいいのではないだろうか。ちょっと考えれば、寝ボケた話だ。 ◆ 国語であれ、文化であれ、固有性やアイデンティティを語るのであれば、それは普遍的日本の固有の言語的文化的構造でしかあり得ない。こういうものの認識は英語をやったから、日本語をやったからわかるというものではない。もっと別の探求領域である。 ◆ そんなことを思いながら、審議会の資料を読むとこれまた驚いたことに、外国語専門部会のメンバー自体、日本語を勉強しなければならない、日本人としての自覚と文化を学ばねばならないと述べている。なんと、小学校の英語教育反対派の理由も、賛成派の理由も同じなのだ。正しい日本語を学ばなければならないから、小学校から英語教育をやってはダメだ。いやそうだからこそ英語を小学校から学ぶべきだ。何を議論しているのか、全くわからない。 ◆ 要するに日本語や英語を勉強する科学的根拠などないのである。審議会の資料を(読みにくいのでかなり忍耐がいるが)読んでいくとわかることだが、要は戦略的教育政策に過ぎないということである。「国際的には、国家戦略として、小学校段階でにおける英語教育を実施する国が急速に増加している。例えば、アジアの非英語圏を見ると、1996年にタイが必修化し、97年には韓国、2001年には中国が段階的に必修化を開始した。EUにおいては、母語以外に2つの言語を学ぶべきとし、早い時期からの外国語教育を推進している。例えば、フランスは2002年に必修化の方針を決定し、2007年から実施する方向で取組を進めている」とある。 ◆ あのフランスがと思うと、日本もがんばらねばということか。すでにオランダなんかは英語がうまい人が多いし、何と言ってもEUの金融センター的役割を果たしているし、観光立国だから当然だ。ドイツも意外と英語がうまい人が多い。中高生も英語ができるなと感じたときがある。ソ連崩壊、ベルリンの壁崩壊で、東欧からの大量の移民が、ドイツ語よりも英語を公用語とした方が生活しやすいという動きなのだろうか。これは調べてみなければわからないが。ユダヤ人の博物館を訪れた際、インストラクターと英語でやりとりをしている観光客が多かったと感じたのは私だけか。ユダヤの人びとはドイツ語より英語の方を選択するのだろうか。こんなことは勝手な憶測だからどうでもよいが、ともかくBRICsもEUも英語、英語なのだ。 ◆ だから日本人も使える英語が必要。そう、グローバリゼーションの中で英語は必須。だから戦略的政策として小学校から英語教育をというのが文部科学省の本音だろう。国語の必要性、文化の必要性は意匠にすぎない。 ◆ いや国語をしっかりと学んでおかないと、思考力が養われないなどという少し突っ込んだ異論反論をする人もいる。しかし、思考力はすべての国の言葉でできてしまうことなので、それもズレた議論だ。微妙な言い回しがとか言ってくる人もいる。そんなものは、良い悪いは別にして、グローバリゼーションにおいては役に立たない。明快な表現が求められるのだから。 ◆ 文部科学省や中央教育審議会の議論の中で、決定的に抜けているものがあるから、そういうボケた議論になるのである。それは何か。哲学である。コンセプトと戦略と戦術(方法論)については喧喧囂囂(侃侃諤諤ではない)やっているが、彼らはコンセプトやビジョンとかいうものを、どうやらスローガンだと勘違いしているようだ。北欧の審議会の資料を読むとあるいはアメリカのもそうだが、「学習理論」について資料の半分を割いて纏め上げている。哲学というと人生哲学だぐらいにしか思ってないのが日本の教育関係者なのかもしれない。欧米では、十分に多角的に「学習の基礎理論」を現場の教師まで共有できるシステムを有している。そのために侃侃諤諤(喧喧囂囂ではない)話し合うことができるのである。 ◆ 戦略的に英語教育を小学校からやるのは大いに結構。しかし内生的成長の仕掛けとしての哲学がないまま実行されれば、結局英語でビジネス会議や国際会議でリーダーシップを発揮できる人材を輩出できない。となれば英語教育は経済と結びつかない。教育と経済を結びつけるのは結局哲学。これはたいへん困った。何せ日本人は無思想が大好き。これが固有の日本人のアイデンティティ。戦略的に教育政策を実施していくと、ここに行き着くわけだから、なんともしようがない。 ◆ それにしても教育と経済が今のところうまく行っているように見える北欧諸国。北欧閣僚評議会がまとめた「北欧の消費者教育」(新評論2003)は、日本やアジアにも1990年台影響を与えたと思われるが、プロジェクト・ベースド・ラーニング的な学習理論をすでにしっかりまとめたうえで、消費者教育の方法論やケース研究をしている。興味深いのはロールプレイやゲーム学習は、プラトンの対話編にそのプロットタイプを見ているところ。プラトンの哲学は、新プラトン主義を通じてキリスト教の理論装置として変容されていくのが西欧の流れだが、結局マックス・ウェーバーのビジョンに包まれているのが、欧米の教育と経済なのだ。 ◆ あの山口昌男さんが「経営者の精神史 近代日本を築いた破天荒な実業家たち」(ダイヤモンド社2004)を綴ったのは、どうやら明治期の日本近代黎明期に、M・ウェーバーが「プロテスタンティズムと資本主義」で明らかにした欧米近代経済人のような発想の経営者がたくさんいたからだろう。彼らは芸術あるいは教育と経済を結びつけた人々だったからだ。そして彼らは今の私立中高一貫校のルーツでもある。私はよく誤解を受けるが、私立中高一貫校至上主義者ではない。この歴史的もう1つの近代の論理を掘り起こすトリガーが私立中高一貫校の教育理念とシステムにあると確信を抱いているだけなのである。 |
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