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教育と経済

「教育と経済」考 §001 教育=人的資本?

2006年1月10日
by 本間勇人(honma@netty.ne.jp)


◆ 教育というものは一般に人的資本(Human Capital)を形成する媒体と考えられている。未来を計算して教育に投資するというのはそういうところから来ているのだろう。いや消費だ、つまり教育そのものを享受することが目的であるという考え方もある。ともあれ、多くは人的資本として投資すると個人、家族、社会の財が増え、消費すると減るという常識的な考え方がなんとなくある。これは教育業界、塾業界もそう思っているだろう。

◆ だが、この考え方はあまりにマックス・ウェーバー的だ。倹約・勤勉・勤労が資本を蓄積するというパラダイムがあるのではないだろうか。ウェーバーと同時代の社会学者ヴェルナー・ゾンバルトはいやいや恋愛と贅沢こそが資本を生んだのだという論文を発表していた。

◆ さてどちらが正しいかという議論には興味・関心はない。投資と消費を分断する常識的考え方がおかしいのだ。消費することは生産することであり、生産することは消費することである。それは単純な循環システムではなく複合循環システムで、座標系で捉えるかどうかの違いだ。循環図のようではあるが結局はリニアーになっているのでは十分ではない。

◆ だから教育を消費すれば、家庭の財はなくなるかもしれないが、社会の財は増える。ただそれだけだ。財の増減の主体を固定して考えるからそうなるのである。何を言っているのか。投資した者があるいは消費した者が主体にならずして何が経済だ金融だと言われるかもしれない。

◆ 財というパイの配分は本来、単純に社会の構成員平等であるというのが基準である。それ以上に望む必要もないし、それ以下の働きでも困るわけである。しかしながら、こんな考え方は、社会主義的で共産主義的だと指摘されるかもしれない。ところがだ、この考え方が市場の原理なのである。

◆ たとえば社会構成員が4人いたとしよう。そして彼らの食料は大福もちだということにしようではないか。今大きな大福もちが1つあるとする。さて、4人の中でBは権力者で、大福もちを配分する力をBが持っているとしよう。Bが啓蒙君主なら、2分の1を自分のものにし、残りを平等に配分するだろう。この社会が4階級に分かれていて、Bが絶対君主だったら、階級に応じて配分するだろう。

◆ さて市場の原理が働いている市民社会だった場合、まず議会は、こういうルールを作るだろう。Bは大福もちが一番好きだ。一番好きな人が配分するが、受け取る順番は最後だ。さてBはどのように配分するか。自分のために仮に大きめに切る部分を作ったとしても、最後に受け取る場合、一番小さなものになる可能性がある。自分の気持ちとは関係なく4等分するほうが、リスクは少ない。

◆ これが市場の原理が働くというケースである。ただし、世界の財というか富はどのくらいあるのか実はわからない。だから取れるだけ取ろうとするのだが、維持しつづけるにはコストもかかるし、略奪されるかもしれない。維持費やセキュリティーにかかる費用対効果を試行錯誤しながら市場で財の交換をする。永久に自分のところに莫大な財があるということはあり得ないのが市場なのである。ある時は莫大な富が自分の手に入るが、すぐにするりとどこかに行ってしまう。そのとどまる時間が個人によって相対的に違うだけである。

◆ ところが情報が不透明だと、この時間稼ぎができる。この時間稼ぎをやって市場の中でできるだけ財を、つまり資本を蓄積しようとしたシステムが資本主義だ。まさに「時は金なり」なのだ。この時間稼ぎという情報格差の作り方の違いがさまざまな資本主義のタイプを生んできたのである。なんだそれなら社会があるところ必ず資本主義があったのではないかというとそうではない。市場の原理が浸透していないと、資本主義は成立しない。市場は財の自由なモビリティを作り出すからだ。この自由がなければ、情報の格差を操作できない。近代というのはこの市場の自由を生み出した画期的時代なのだ。

◆ ただ、世界の富がどのくらいあるのか完全に知りえる情報共有ができることはない。もしできたとしたら、そのとき初めて財は平等に配分されるが、そんなことは当分こないだろう。だから情報を収集する欲望が資本主義には渦巻くのである。情報取扱の光と闇の葛藤の解決に向けて無限のケイオス的な動きをするのが市場なのである。

◆ この市場を維持し、できれば市場の財あるいは富の再分配が最適になるような高い知識を生み出すのが教育なのである。近代教育を人的資本論として捉えようとする理由には、こういう背景があったのである。

◆ ただし、教育というのは人的資本の形成のためだけではない、この人的資本を生み出すインフラ、ファシリティーズ、教育空間、教材、スタッフなどなどの器が必要である。人的資本を経済における内生的成長としてとらえると、器の方は外生的成長としてとらえることができる。

◆ 教育の経済効果は、内生的成長としての人的資本に影響を与えるだけではなく、外生的成長としての経済への影響も膨大であるはずだ。しかし、この外生的成長の側面はあまり注目されない。実はこの部分は市場の原理が働きにくい部分だったからである。税金の配分に依存しているから、当然市場の原理は稼動しにくい。最近では教育の領域でも自治体は市場の作用を活性化するために、「コンペ」なるものを実施するが、税金の配分の仕方が市場の原理を利用しているに過ぎない場合が多い。税金依存体質そのものが問題なのである。「教育不信と教育依存の時代」が問題なのではなく「教育の税金依存の時代」が問題なのである。



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