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イギリス中等教育における「カリキュラム横断型テーマ」と日本の総合学習

2004年3月3日
by 葛原 裕香

§0 はじめに

■ 日本の学校教育に「総合的な学習の時間」(以下「総合学習」と記す)が導入されるようになって以降、学校現場ではそれぞれ創意工夫を生かした横断的・総合的なテーマ学習が展開されている。しかしながら、依然として総合学習に対する現場の戸惑いや、その意義を疑問視する専門家たちの声は少なくない。

■ そこで、以下ではイギリスの教育社会学者ジェフ・ウィッティーの著書、「教育改革の社会学」の第2章で論じられている「カリキュラム横断型テーマ」に関する観察研究報告を紹介したい。著者は、1990年代のイギリスの中等学校で「カリキュラム横断型テーマ」がどのように教えられてきたのかを、観察研究に基づいて報告している。もちろん、イギリスと日本では、これまで歩んできた教育の歴史も学校文化も異なるので、一概に比較することはできない。しかしそれでも、イギリスにおける「カリキュラム横断型テーマ」の報告は、今後日本が「総合学習」をどのように発展させていくかを考える上で、参考になるのではないかと思われる。

§1 「カリキュラム横断型テーマ」の位置づけの困難さ

■ イギリスでは、1979年に誕生したサッチャー政権の教育改革を受けて、1988年に教育改革法が制定された。そして翌年から、それまで統一的なカリキュラムが存在していないイギリスで、「数学・英語・理科」をコア教科、「歴史・地理・技術・音楽・体育・現代外国語」を基礎教科とする、拘束力ある教科型ナショナル・カリキュラムが設けられた。その一方で、そうしたコア教科や基礎教科以外の、必修ではない「カリキュラム横断型テーマ」もあわせて導入された。

■ 「カリキュラム横断型テーマ」とは、「健康教育」「市民性(シティズンシップ)」「キャリア教育・ガイダンス」「経済理解」「環境教育」の5つのテーマのことである。これは、コア教科や基礎教科には含まれない内容を生徒に教えることのみが目的ではなく、教科と日常生活との関連づけを行うものとして期待されていた。ところが、現実には「カリキュラム横断型テーマ」はそれぞれのテーマの特色を維持することは難しく、教科間の系統づけに関しても十分機能を果たしたとはいえなかった。

■ 当初、「カリキュラム横断型テーマ」が生き残るためには、コア教科や他の基礎教科を通して「カリキュラム横断型テーマ」が教えられるという浸透的アプローチがとられた。しかし、このようなアプローチでは、伝統的なコア教科や基礎教科は知識の獲得と理解の達成を特権化する傾向があるため、それらの教科と「カリキュラム横断型テーマ」の配置の間には、どうしても緊張関係が生まれやすい。浸透的モデルにテーマの教授を頼ることになれば、教室レベルで、テーマの特質のいずれかが従来のアカデミックな教科に伴う強い分類と強い枠づけの犠牲になってしまう。

■ その点、「カリキュラム横断型テーマ」の中でも、いわゆる「最もアカデミックな教科らしくない」テーマと見られがちな「健康教育」や「キャリア教育」は、そのテーマが一つの「教科らしい」特質をもつことによって、それが実質において他の諸教科から逸脱していても許された。教室での弱い枠づけと学校外の世界に対しての弱い境界を維持することができるのは、「カリキュラム横断型テーマ」がコア教科や基礎教科を侵害する危険性が最小限に抑えられるという理由がある限りのことなのである。結果として、教科間の境界を弱めるという点において歓迎された「カリキュラム横断型テーマ」であったが、コア教科や基礎教科のように一つの独立した教科の形式をとることが実際は多かったのである。

■ とはいえ、その他のカリキュラムから比較的疎隔しているからこそ、そのテーマだけでカリキュラムのコマを独占できるというのでは本末転倒である。教科に含まれていないテーマを教えるために「カリキュラム横断型テーマ」が導入されたのにもかかわらず、ひとつの独立した「教科」の形式をとっていれば、もはやそれは「カリキュラム横断型」とは呼べないだろう。

§2 授業において教科の言説と「おしゃべり」を強く区別する生徒たち

■ さらに、「カリキュラム横断型テーマ」を教えるために教科を利用する際、二つの問題点が浮上した。第一に、生徒たちは教科の言説と、彼らが直接的には教科に関係ないと考えている会話とを強く区別していることである。第二に、生徒が授業中において「正当な」会話とみなすものが、教科ごとに違っていることである。

■ 授業中の「おしゃべり」のほとんどは、集中の途切れ、もしくは話題が中核から外れたときに起こる。そのとき、生徒たちはそれを「話が脱線する」「横道にそれる」ようなことと受け取っており、教科とは関係のないものとして捉えているのである。休み時間や昼休みの「おしゃべり」は、仲間集団や家族の文脈と結びついた生徒たちの日常会話であるが、生徒たちはそうした「おしゃべり」と授業中における教科の言説とを明確に区別している。教師が生徒に語り、質問して答える、そして構造化された議論をおこなう、といったスタイルとは異なる会話がなされた場合、そうした「おしゃべり」は学習に寄与するよりも、むしろ覆すものとして生徒は捉えるので、教科の言説と毎日の生活との間に関連づけを行おうとはしない。

■ しかしながら、そのような関連づけを許す類の「おしゃべり」こそ、教科と日常生活との関連づけをおこなうテーマ学習においては特に重要なものとなる。学校の会話と「まちの会話(street talk)」との関連づけを創出しそうなタイプの会話があるほど、生徒たちがテーマをより効果的に教授できると考えられるからである。にもかかわらず、従来の認識のままでは、テーマ学習時の会話は「おしゃべり」として、言いかえれば「正当でない」非学校的会話として生徒は捉えてしまう。これでは、テーマ学習の意義が薄れてしまうだろう。また、教科学習のように、教科の原理に立たないような生活常識に基づいた回答は教室内において信頼を得ていないと生徒が判断してしまうと、テーマ学習で教師が生徒たちからどんなに自由な回答を引き出そうと奮闘しても、生徒の回答は制限されかねない。

■ 加えて、授業中の「おしゃべり」がそれぞれの教科で異なる価値づけがなされている点も問題である。授業中における「正当な」会話とみなされるものは、教科ごとに違っており、たとえばイギリスの中等教育の場合、「カリキュラム横断型テーマ」や人格教育(PSE)のような授業は、生徒たちから「正当な」教科ではないとものみなされる傾向があるという。生徒たちの中には授業の意義、すなわち「カリキュラム横断型テーマ」や人格教育(PSE)で学ぶべき事柄が何であるのかが充分にわからない者もいるという。

§3 「カリキュラム横断型テーマ」から日本の総合学習が学ぶべき点

■ 結果としてサッチャー政権は、子どもたちが成人後の生活のさまざまな出来事に対応できるよう、ナショナル・カリキュラムと「カリキュラム横断型テーマ」の利用を企てながらも、実施段階ではさまざまな困難に直面した。日本において、この先総合学習がもし効果的になるべきだとすれば、イギリスの「カリキュラム横断型テーマ」の場合と同様に、教師および生徒が取り組まねばならないこととは次の点であろう。

■ それは、生徒たちが将来出くわすであろう、さまざまな教科の周辺にばらまかれたテーマの諸要素間を関連づけること、そして、それらの知識を学校外の生活に適用することである。総合学習で学んだことは、生徒自身によって、そしてときには教師の助けを借りて、生徒の日常生活へと関連づけられ、戻されていくことが必要だ。そのためにも、テーマ学習における会話が、授業とは関係のない「おしゃべり」ではなく、日常生活と他の教科を関連づける重要な知識として認識される必要がある。テーマ学習の当面の改善案としては、著者は@テーマに関連した知識が何らかの方法で教科において強調されること、A生徒が教科知識の適切な部分を再文脈化できるように、援助の手が差し延べられるカリキュラムに十分な時間が与えられること、の2点を挙げている。

■ ただし、ここで留意すべき点がある。バーンスティンも指摘するように、この関連づけを行うにあたってクラス全体を見たとき、他の生徒たちより有利な位置にいる生徒グループが存在する。相対的にテーマをきちんと組み立てたり、教科知識を再文脈化したりすることができる生徒は、実際には少数に限られている。おそらく、テーマ学習関連の知識を理解する機会は、社会的・文化的背景によって異なる分配が行われており、テーマ学習で発揮される生徒たちの能力差に結びついているものと推測される。したがって、テーマ学習を実施する際は、教科学習以上に、一人一人の生徒たちに対するきめ細やかな教師のフォローが求められるだろう。

参考文献: 「教育改革の社会学」(2004年 東京大学出版会)
ジェフ・ウィッティー著/堀尾輝久・久富善之監訳
'Making Sense of education Policy'(2003,Sage Pubns)Geoff Whitty.
http://www.jtu-net.or.jp/news/99/03/10news5.htm

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