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NTS教育研究所スタッフによる【学び】をキーワードにしたコラム

学校の色彩・「自由」の周辺で ― 麻布中学校・高等学校 (4) ―

◆ 前回のコラムでみてきたとおり、第一次学園紛争において、生徒の主体性、対話や議論というプロセスの尊重が確認された。しかし、1970年、山内一郎は校長代行―彼は教職員経験がなく、校長に就任することができなかった―に就任すると、藤瀬校長とともに全校集会で結ばれた生徒との合意を白紙に戻し、理事会の支持を背景として武断的とさえいえる強健的な独裁をはじめた。ここに第二次学園紛争が幕を開ける。この学園紛争は、東大の入試が中止され紛争が全国的に最も活発な年であった69年ではなく、70年から71年にかけてのものであったことからもその特殊性が窺える。麻布学園において一般に「学園紛争」といわれるこの第二次学園紛争を、全生徒と全教員、そして全保護者を巻き込んだ学園の理想の取り戻しと、それをより尖鋭的に鍛え上げ、根付かせていった過程ととらえることもできるかもしれない。

◆ 『麻布学園の一○○年』によると、山内代行は就任以来、政治活動に参加した生徒の停学や告訴など生徒への強権的な抑圧のみならず、職員会議の軽視や教員の解雇など、教員に対しても同様の姿勢で臨んだ―また、当時はまだ闇の中であったが、代行による学校公金横領も発生していた―。反動的でありながらも、彼は自らの教育の理念を示すことはできず、それを「学園の私物化」をめざそうとするものだと喝破した者もいたようだ。生徒が代行への反対活動を強めるにつれ、教員も代行派と労働組合派に分離し、代行との対立を強めていった。

◆ 不満は憤懣に達し、1971年の文化祭とそれに続くロックアウトによって一気に爆発する。10月3日、文化祭当日、停学処分の撤回と全校集会を求めて20人のデモ隊が代行への面会を求めると、代行はそれを拒否して隠密裏に学外に逃走し、機動隊を校内に導入した。生徒側はそれを二度にわたって学外に追い出したが逮捕者を出し、さらに5日、代行は面会を求めて抵抗もせずに座りつづけていた生徒数百人を再び機動隊を導入して実力行使で排除し、さらにロックアウトを宣言した。

◆ ロックアウトという異常事態を通して、生徒、教員、そして保護者がそれぞれ反山内という形で結束し、さらに連携していった。生徒は自主ゼミを繰り返し、教員は山内批判の論鋒を鋭くしていったが、特に暗に明に、日を追って増していった保護者の果たしていった役割と意識の高まりは、学園における保護者自身の「主体性」の確立という点からも、重要なものであったように思われる。

◆ 11月15日、教職員とともに数百人の保護者が見守る中、山内代行は全校集会において圧倒的な批判の下についに辞任する。この時、藤瀬校長のもとに結ばれた全校集会の成果が確認されることになるが、生徒を中心とし、それを教職員と保護者が見守るという現在の麻布のあり方が、この全校集会に端的に表れているように感じられる。

◆ この二つの学園紛争を通して、現在の麻布学園を形作り彩っている、生徒・教職員・保護者(PTA)、自治・自治組織・その理念、主体性・議論・過程などの基礎的な要素が、様々な混乱や犠牲を伴いながらも、その基盤とともに明確になり鍛えられていったのだろう。
江原素六により用意され、学園紛争により新たな色が加えられたパレットの上にさらにどのような色を加え、そしてどのように自らを彩っていくのか。それは多様であったとしても、麻布生達が帯びる色彩について、学園の歴史とそこで培われてきた諸要素とをふまえて再び立ち戻ってみたい。


古阪 馨
2006年11月6日更新

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