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| NTS教育研究所スタッフによる【学び】をキーワードにしたコラム |
| 学校の色彩・「自由」の周辺で ― 麻布中学校・高等学校 (3) ― |
| ◆ 麻布学園は学内外に生徒活動が盛んなことでも知られている。今年度で58回目を迎えた文化祭は例年2万人近い来校者を集める都内最大級のものとして有名であり、50近くもあるクラブには全国レベルの活躍をするものもある。 ◆ その中でも特筆すべきものは、3,000万円にも及ぶ生徒の活動費が完全に生徒の自主裁量によって運営されていることではないだろうか。生徒会則(正確には麻布には生徒会という名の自治機関は存在しない)の制定を含め、生徒活動費の運営を中心とした生徒による自治活動は、麻布の学園生活を彩る最も特徴的な色彩の1つであるように思われる。しかし、麻布学園の自治活動は創立当初より存在していたのではない。現在の形を得るには、学園紛争と山内代行という麻布学園においては江原素六についで知られる2つの固有名詞を経験せねばならなかったのである。 ◆ 戦後復興後しばらくの麻布学園は、現在とは異なり、校則が厳しく、自治活動への関心も低く、東大合格を至上価値とする学校であったようである。当時の自由は規律に対しての自由であり、また画一的な授業に対する不満も生徒に徐々に蓄積されていった。 ◆ そのような中、1968年に藤瀬五郎氏が校長に就任する。戦前の卒業生である彼は、「名門校」という看板―現在以上に大学合格実績によるところが多いのだろう。そしてそれが教育の画一化をもたらしていたのだろう。―が世間につけられていることに違和感をおぼえ、「人間の価値」を確立した「人間形成」を教育の柱とする個性的な私学を目指したという。彼のもとで学園に新風が吹き込むと、「自由の伝統の意味の問い直し」と、その自由を「積極的に行使」していこうとする生徒の自覚が春を迎えたかのように目覚め、授業改革と自治とを求めながら花開いていった。それに対し校長は積極的な対話で応じ、学園改革は実を結んでいくかと見えた。しかし時は1969年、麻布学園は日本中に吹き荒れた学園紛争の最後の嵐にもまれていくことになる。 ◆ 1969年に始まった第一次学園紛争は、授業やテスト制度の改革をモチーフとして、全闘委の影響を強く受けつつ高校生の政治活動・自治活動とを問い直しながら、翌年3月の4日間に及ぶ全校集会で結実する。この全校集会において、生徒の自主活動が基本的に自由であること、自主活動の自由を実現するために作られたルールを遵守すること、誰が提起したものであっても真剣な討論によって問題が解決されるべきであること、さらにその決定が生徒会によるべきことなどが学園と生徒らの間で確認され、また一人一人がそれを負うこととなった。 ◆ 第一次学園紛争により培われたそれぞれの主体性を尊重し育もうとするこれらの原則は、現在の麻布学園の学生生活の実質的・直接的な基盤となっているように思われる。そしてまた、これらが徹底的な議論と討論の上に確立されたものであることも、そのプロセスを何よりも大切なものとして尊重する現在の麻布学園を形作るものとして、意義深いことであったといえよう。 ◆ しかし、藤瀬校長の「対話路線」は、全国を吹き荒れた学園紛争の嵐の中で急進化しつつある生徒への譲歩とうつったのか、あるいは後、山内代行を絶対的に支持することにつながるような土壌があったのか、理事会を中心として批判が相次ぐ。彼の辞任と山内校長代行の就任により、麻布学園は創立以来最大の混乱を迎えることになる。
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古阪 馨
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2006年11月2日更新
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