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NTS教育研究所スタッフによる【学び】をキーワードにしたコラム

学校の色彩・「自由」の周辺で ― 麻布中学校・高等学校 (2) ―


◆ 麻布学園は港区元麻布の小高い丘の上にある。都立中央図書館や有栖川宮記念公園という文化施設に隣接し、さらに大使館や高級住宅地に囲まれた閑静な地域で、明治以前には諸藩の江戸屋敷が並んでいた。麻布学園の地も元来秋月藩の下屋敷であり、狸坂、暗闇坂などの地名が往時を偲ばせる。明治32年に現在の地に移転してからは「筑波の緑や富士の白雪」(当校校歌より)も望めたという。現在の校舎は昭和7年建設で、数々の青春の思い出と学園の歴史とを、質実重厚なたたずまいの隅々にまで刻みこみ伝えている貴重な建築である。

◆ 狭い校門を抜けて中庭に入ると講堂の前に1つの胸像が置いてある。創立者江原素六氏の像である。麻布関係者に彼を知らないものは文字どおりいない。そして彼を知ったものはそこに麻布の原点を見つけるとともに、立ち返り続ける場所を持つのである。彼の生涯に関してはいくつかの伝記に詳しいのでここでは述べないが、彼が昌平黌で正統の儒学を学んだ武士であり、「発展向上を図る志」を持ち続け、「克己」を旨としたメソジストだったことは、彼の様々な功績とともに記憶されてもよい。

◆ 明治28年、東洋英和学校より独立した麻布尋常中等学校は、当初は明治学院などのようにキリスト教主義の学校だった。しかし、宗教教育禁止の訓令(明治32年文部省訓令12号)が出た時、江原はキリスト主義を放棄し感化主義の方針を採る。これは彼が宗教家であるよりも政治家であったからという以上に、非現実的な夢を見るよりも青年とともに現実を理想化していくことを選んだということだろう。

◆ 江原の人柄をしのばせる学園での逸話がある。
とある寄宿生(当時麻布には寮もあった)たちが、品川の遊郭から帰ってきたところ寮長の先生につかまってしまった。寮長先生はカンカンに怒ってその生徒たちを放校処分にするといきまいたそうである。ところが江原校長はなんとも返事をしない。張り合いなく寮長先生が椅子に腰を下ろすと、しばらくして江原校長は突然「はっはっは」と笑い出し、「朝帰りをつかまっては、それはさぞ弱ったろうな」といったそうである。またある時、下駄履きで階段を下りた生徒を教頭が退学処分にしたことがあるそうである。これを過剰な処分と保護者が抗議したとき、江原は頑として教頭の処置を支持したそうである。

◆ このような青年に対する包むような寛やかさと毅然とした厳しさとを江原は持っていた。江原素六こそが「自由」といわれる麻布の原風景なのであろう。そして彼において人生が自己形成の過程であったように、「自由」とは彼にとって寛やかで厳しい自己発展のための基盤であったのだろう―挑戦と反省と更なる挑戦によって彩られた―。

◆ 自由に逸脱はつきものである。一方で「蓬生麻中、不扶而直(蓬麻中に生ずれば、扶けずして(自ずから)直し)」という言葉もある。「青年即未来」という江原が若者に向ける視線は常にあたたかい。江原さん、江原さん、と生徒たちに慕われた彼が彼らに据えた視線の先に見ていたものは何だったのだろうか。

◆ 未来に向けられていた視線は、現在の麻布学園にも据えられているに違いない。

 

古阪 馨
2006年10月26日更新

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