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第四章 東ティモール問題

by小松原 瞳

§0 はじめに

■これまで主に国連のシステムについて、それぞれの分野ごとに検証してきたが、今章からは特定の事例の中で、実際に国連がどのように機能し、またどういった点が問題となっているのかを見ていきたい。

■そこで、今回インドネシアからの独立をめぐって争われた東ティモール問題を取り上げたいと思う。この問題で論点となったのは、国連による「人道的介入」の是非、そしてその定義である。「人道的介入」の問題は、湾岸戦争の前後においてのクルド族難民の問題として提起されたが、その後も世界中で数多くの民族紛争が頻発し、適切な対応に国際社会は迫られている。

■しかし、人道的介入の問題における国際的な合意はいまだに見出されておらず、各国の意見が一致する段階には至っていない。人道的介入の可否や基準、その手続きや方法など、今後一層の究明が求められている。東ティモール問題に対し、国連がどのような形で関与し、人道的介入論にどういった影響を及ぼしたのか、「人道的介入と国連」という一冊の本をもとに考察していきたい。


§1 東ティモール問題の概要


■東ティモール民主共和国というのは、21世紀に入って最初(2002年)の独立国である。インドネシア東部のティモール島の東半分にあたる東ティモールは、日本の長野県とほぼ同じ広さであり、16世紀以降ポルトガルによる植民地支配を受けていた。ティモール島西半分と周りの島々はオランダ植民地で戦後はインドネシアとして独立したが、ポルトガルは植民地を手放さない方針だったため、戦後も東ティモールはポルトガル領のまま残った。しかし1974年にポルトガル本国でクーデターが起きて左派政権が樹立されると、すべての植民地を放棄して独立させるとし、東ティモールでも1976年に総選挙を実施し、ポルトガルは撤退すると発表した。

■そのため東ティモールでもさまざまな政治組織が生まれたのだが、主に3つが挙げられる。1つは「東ティモールはもともと西ティモールと一つであるゆえに、インドネシアに併合されるべき」と主張するAPODETI (ティモール人民民主協会)で、ポルトガル人がやって来る前からの島の伝統的な支配層(リウライと呼ばれる首長たち)が支持している。もう1つは「独立してもポルトガルと連合を組んで仲良くすべき」というUDT(ティモール民主同盟)で、ポルトガル統治を支えた人たちが支持層である。そして残る1つはFRETILIN(東ティモール独立革命戦線)で、農民を基盤とする社会主義政党だった。

■こうして各政党の宣伝合戦が始まったが、農村で識字運動や医療活動に取り組んだFRETILINが圧倒的な支持を集めるようになり、政党同士の争いはやがて武器を持っての争いにエスカレートしていった。当初はUDTとFRETILINが独立を目指して共闘していたが、危機感を強めたUDTが1975年8月にFRETILINに武力攻撃を仕掛けて内戦が勃発。総督はじめポルトガル軍と役人は事態を収拾することもなく、事実上統治責任を放棄した。

■内戦は反撃に転じたFRETILINが勝利して、UDTはAPODETIとともに西ティモールへ逃げ込んでインドネシアへの併合を要請。インドネシア軍が迫る中、FRETILINは11月28日に「東ティモール民主共和国」の独立を宣言した。しかしインドネシア軍の圧倒的な兵力の前に、12月7日には首都ディリが陥落、FRETILINは山岳地帯に逃げ込んでゲリラ活動を続けることになった。

■東ティモールはインドネシア軍に占領され、インドネシアは翌1976年7月に東ティモールを併合した。インドネシアとしては、ティモール島の西も東も同じ民族であり、併合するのは当然という考えだった。かつてインドがポルトガル植民地のゴアなどを武力併合した時も、国際社会はそれを認めたという前例もある。国連は総会で「インドネシアによる東ティモール併合を認めない」決議を採択したが、実際には黙認する形となった。

■なぜなら、1975年当時はサイゴン陥落で南ベトナムが崩壊し、インドシナ諸国が次々と社会主義化した時であり、西側諸国はドミノ現象により東南アジアが次々と「赤化」することを恐れていた。そのため社会主義を掲げるFRETILINが東ティモールで政権を握るよりも、インドネシアのスハルト反共政権が統治することを望んでいたのだ。

■こうしてインドネシアによる東ティモール併合は、国際社会で事実上黙認されてきたのだが、現地ではFRETILINのゲリラ活動が続き、インドネシアの軍や警察はゲリラ掃討のためと疑わしい東ティモール人を徹底的に弾圧し、多くの死者を出した。このためインドネシアはポルトガルと違いインフラを整備したり教育を充実させたにも関わらず、東ティモールの住民からは反感をかい、1991年に抗議集会を開いた住民に無差別発砲する(サンタクルス事件)に及んで、東ティモール問題は国際的にも注目されるようになった。

■やがて1998年にアジア通貨危機でスハルト政権が崩壊し、インドネシアは東ティモールを特別自治州にすると提案したが、1999年の住民投票で拒否されて独立することが決まった。国連による暫定統治を経て2002年5月20日に東ティモール民主共和国は晴れて独立をしたのだが、ここで問題となったのが、果たして東ティモールは「独立」するのか「復帰(主権回復)」なのかということである。

■国連統治下の総選挙で圧勝し政権の座に就いたのは、すでに社会主義路線を放棄したFRETILIN。社会主義のイデオロギーを放棄したといっても、長い独立闘争の歴史を放棄したわけではないから、「東ティモールの独立はあくまで1975年11月28日で、2002年5月20日はその後インドネシアに奪われていた主権を回復した日だ」と主張する。

■一方で他の政治勢力、特にUDTは「1975年の『独立』はFRETILINが一方的に宣言しただけであり、本当の独立は2002年だ」と主張する。UDTはいったんインドネシア併合を認めていたが、その後インドネシアの圧政に反発して、主要幹部が海外へ亡命。ポルトガルでFRETILINと再び共闘して亡命政府を作り、独立運動を続けてきたのだ。

■国連をはじめ国際社会一般では、インドネシアによる併合は正式に認めていなかったが、1975年に独立宣言をした東ティモール民主共和国も承認していなかったので、「東ティモールはずっとポルトガル領のままだったが、1975年から1999年までインドネシアに不法占領され、1999年からはポルトガルに統治意思がなかったので代わりに国連が暫定統治をした」という見解だ。ゆえに東ティモールが独立したのは、あくまで2002年5月と考える。

■結局、東ティモールの正式国名は、1975年の時と同じ「The Democratic Republic of Timor-Leste」に決まったが、国旗は少しデザインを変え、独立記念日は5月20日と制定された。



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§2 国連の働き


■ではこの東ティモール問題において国連がどのような役割を果たしてきたのかを、見ていきたい。まず1961年、「ポルトガル施政下にある領域に関する特別委員会」が設置され、ポルトガルを施政国とする非自治地域の独立に向けて、国連の監視が強化されていった。そして、1974年ポルトガルにおけるクーデターにより政策変更がなされ、同国の支配から東ティモールは独立することが予定された。

■その結果、東ティモールでは政党活動が活発化し、やがて内戦状態に突入した。それに伴い、ポルトガルは施政継続が困難となったため、植民地支配を事実上放棄し、国連に支援を求めるようになった。さらに、インドネシアが東ティモールに武力侵攻すると、ポルトガルは安保理の緊急会合開催を要請し、「国連軍による即時介入」と「人道的救援活動」を求めた。こうして開催された安保理の会合により、インドネシアの武力侵攻を避難する決議が採択され、インドネシア軍の即時撤退を要請したが、介入に踏み切ることはなかった。翌年も同旨の決議が採択されたが、それ以降安保理において東ティモール侵攻が議題にのぼることはなかった。

■総会でも侵攻直後から1982年まで、東ティモール住民の人民自決権の尊重を求める決議が採択されてきたが、それ以降決議が採択されることはなく、事務総長を通じてインドネシア・ポルトガル間の協議が行われるにとどまった。

■1998年にインドネシアのスハルト政権が崩壊したため、インドネシア・ポルトガル両国は、ついに「直接投票」による住民の意思確認によって東ティモール独立の成否を決定することで合意した。これを受け、両国は国連と共に東ティモールの自治の詳細を規定した合意文書を作成し、署名した。この合意文書に基づき、住民投票を実施するために国連東ティモールミッション(UNAMET)が派遣された。

■しかし、住民投票の実施が決定して以降、現地では独立派とインドネシアへの残留派との間で対立が激しくなり、UNAMETも残留派に襲撃されている。8月30日に実施された選挙では、投票者のうち78.5%がインドネシアによる「自治提案」に反対したため、独立が決定的となった。これにより、残留派がさらにその勢いを増し、独立派の多くが殺害されたり、難民・避難民となった。

■残留派の過激な破壊活動によって、民家や商店は焼き払われ、道路など社会基盤も多大な損害を被った。そこで、国連はオーストラリアを中心とする多国籍軍(INTERFET)を現地に派遣し、治安の回復のためにインドネシア政府に協力するとともに、難民・避難民の帰還を促すなど人道救援活動の支援にあたった。その後、安保理により国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)の派遣が決定し、国連による暫定統治を経て正式に独立することとなった。

 

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§3 人道的介入の問題点

■世界中で様々な国内紛争が勃発する中、「人道的介入」論において問題とされるのは、重大な人権侵害や人道上の惨劇が発生している紛争当事国に対して他国が武力を行使して介入することが許されるのかどうか、という点である。これに関して、紛争予防が失敗した場合の武力を伴う介入はあくまでも「最後の手段」であるとし、紛争当事国が多大なる人道的危機を阻止・鎮圧する意思や能力がない場合には、他国が集合的に武力を行使することが容認されるべきとする意見がある。

■人道的介入というと、「存外自国民の救出」から「外国政府による当該外国人への大規模な抑圧が行われている場合の救援」までもが含まれるが、自国民の救出と他国での人道上の惨劇への介入はまったく性質が異なる。国家または国際機構による他国内での紛争への「人道的関与」が、人道的危機に瀕した一般市民を救援する点に重きを置いていることは明白である。

■その背景として、第2次世界大戦後の国際社会において人権・人道意識が高揚していることがあげられる。そうした意味で、人道的介入論は「自然災害及び同種の緊急事態の犠牲者に対する人道的救援」における問題意識と非常に密接な関連性がある。

■では本題だが、「人道的介入」には大きく二つの問題がある。一つ目に、介入を行う側が自らの利益に基づいて介入・不介入を決定するのではなく、本当に「人道」的理由に基づいて介入しているかどうかという問題である。二つ目に、介入の際に武力行使が認められるかという問題である。国連憲章上、武力行使は憲章第7章に基づく強制行動と第51条に基づく自衛権行使の場合に限られている。もしも人道的理由に基づく武力行使が許容されるとするなら、憲章第2条4項が禁止していない武力行使であるかどうか、同条項の禁止の範囲を問い直す必要性が生まれる。

■また、人道上の危機を理由とした多国籍軍や国連の部隊による武力行使を容認する安保理決議は、対象となっている事態を憲章第39条に基づいて「国際の平和と安全への脅威又は破壊」としており、武力行使の正当性をあえて「人道」には求めていない。「人道」という観念が、国際法の基本原則とされる「武力不行使原則」をも超越する存在となりうるかどうかは、今後慎重に検討する必要があるだろう。

■では、今回の東ティモール問題における本質的な問題だが、2つの側面から考えることができる。一つは、「植民地独立過程に対する国連の関与」という側面、もう一つは、上記にあるような「人道的介入」論が提起する、人権侵害と人道上の危機に対していかに関与するか、という側面がある。いずれにせよ、東ティモール問題は人道的側面をもっており、国連憲章第1章2項および3項に従い、国連が積極的に関与すべき事例であったといえるだろう。

■ただし、東ティモールの事例においては、大規模な人権侵害や人道的な惨劇が生じていたことは事実であり、INTERFET派遣に関してはインドネシア政府の同意も得ていたため、今日問題とされている、相手国の同意なく強制的に他国が介入できるか、という意味での「人道的介入」論とは、また根本的な構造が異なることに注意しなければならない。

■それでは、実際に「介入・不介入」の基準はいったいどのように決定するのだろうか。東ティモール問題において、1975年にポルトガルから「国連軍の即時介入」の要請あった際、国連は「非難」決議は採択したが、直接的な介入は行わなかった。その背景には、インドネシアの施政学的な問題や、共産主義政権の成立を西側諸国が嫌ったためと考えられる。つまり、人道的危機の発生に対し国連が積極的な行動を行うことよりも、政治的な問題が優先されたということである。

■また、INTERFETの派遣の際も、アメリカは自身の国益に影響がある場合に限り介入すると言明していた。介入が義務でないかぎり、どんなに重大な人道上の危機が存在しようと、他国が軍事力を伴う介入を行うかどうかについて、「国益」概念による国内政治を考慮するのは、当然ともいえる。人道的介入について議論を行ううえで、「人道」という概念にばかり注目が集まる傾向があるが、「介入」という具体的行動に伴う現実的な面にも目を向けて考える必要があるだろう。

 

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§4 まとめ

■「人道的介入」論の核心は、大規模な人権侵害が発生している国に他国が武力をもって介入することの是非であるが、東ティモールに関しては、INTERFETの活躍により現地の治安が回復し、独立プロセスを予定通りに進んだという限りでは、成功であったといっても間違いではないであろう。しかし、忘れてはならないのは、INTERFET派遣は、その被介入国であるインドネシアの「同意」があり、またオーストラリアもインドネシアによる「同意」を条件に多国籍軍を派遣したという点である。

■安保理における明確な授権がないまま実行されたコソボ空爆が、その後の和平を前進させるに至らなかったのに対し、「合意」をとりつけて行われた東ティモールへの介入は、新たな混乱をまねくことはなかった。「人道的介入」の問題を考える上で、この東ティモール問題は、新たな筋道を私たちに示唆してくれているのではないだろうか。

 

参考サイト  ○外務省HP(http://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html
参考文献 ○「持続可能な開発の新展開」(2006年 国際書院)編日本国際連合学会
  ○「人道的介入と国連」(2001年 国際書院)編日本国際連合学会

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