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私学の先生方の教育コラム3
「21世紀の一貫校」-武蔵野女子学院をモデルとした考察-
武蔵野女子学院 広報担当 鈴 木 定 幸 先生


1 ▼ はじめに
2 ▼ 新しい時代迎える前に今を考えてみれば……
3 ▼ 宗教を持つ学校に、なにか特別な意味を考えていませんか?
4 ▼ では、宗教を持つ学校とはどういうものなのでしょうか
5 ▼ 本校の宗教のおさらい
6 ▼ 日本古来から情報教育はあったのでは……
7 ▼ 21世紀の情報教育とは

8 ▼ ゆとりの教育
9 ▼ 保護者の方の青春時代を振り返ってみましょう
10 ▼ 「ゆとり」と授業
11 ▼ これからの学校づくりに向けて
12 ▼ 武蔵野女子学院のもつ環境とは
13 ▼ 終りに



◆●はじめに

 21世紀を目の前にして21世紀の100年間を考えることは、明治34年から平成12年、つまりは明治・大正・昭和・平成と長い時代にまたがる教育を考えることでもあります。しかし、明治時代から今のことが想像できたでしょうか。ですからここでは、21世紀に向けての一貫校、さらには一貫校の新しい世紀ということを、本学院をモデルにして考えてみたいと思います。
武蔵野女子学院グラウンドの銀杏
新しい時代を迎える前に今を考えてみれば……

 21世紀を目の前にしまして、教育界でもいろいろな問題が出てまいりました。

 いちばん大きなものとしては、2002年のカリキュラム改訂でしょう。このカリキュラム改訂は、今の社会を反映して「ゆとり」とか「こころ」の教育ということを、中心においているようですが、果たして本当の意味でそうなのでしょうか。

 たしかに、学級崩壊や不登校など、今までもありました問題が、マスコミなどが取り上げることによって、クローズアップされてきました。今まで目に見えにくかった部分が、かたよった形で取り上げられ、問題にされてはいないでしょうか。

 さらには、情報教育・国際教育という、今まで多くの私学が取り組んできた問題を、後追いする形で公立もするように考えているのですが、そのために、授業時間数を少なくしてしまうことは、21世紀を担う今の小中学生にとって本当によいことなのかは疑問です。

 今、小中学校の生徒をお持ちの保護者の方々にとりまして、ご自分達の中学や高校時代が、「ゆとり」もなく暗い毎日だったのでしょうか。勉強が大変で、好きなことやクラブ活動もお出来になれない毎日だったのでしょうか。全ての方がそうではないと思います。

 授業が少なくなれば「ゆとり」や「こころ」の教育が充実するとは思われません。

 一貫校教育は、授業をもっと整理して、6年間という長い間、それも、お子様の人生の中で最も大切な青春時代を、よりよく過ごしていただくために考えられ、長年私学で行ってきたものなのです。急に一貫校にするといいましても、今まで考えながらよりよいものをとしてきました私学の多くは、すでに次の段階に入っているといっても過言ではないと思います。不登校にしても、報道されていますのは私学と公立を分けて出されているわけではありません。まして、学級崩壊などということは、ありえないのです。

◆●宗教を持つ学校に、なにか特別な意味を考えていませんか?

 最近読みました本の中に、このような一説がありました。

 「恋愛、旅、放浪、孤独は、この感覚の自由へのやむなき要求の表れであるが、その自由そのもではない。これをとりちがえてはならない。個性に深く徹すれば徹するほど他人のことが判るようになる思いやりが深くならなければならない。フーレー先生、モノ・ハルツェン先生はこのことを教えてくれた。自己の自由の自覚は他人の自由の尊重になるものである。そしてこれが民主主義の本当の基礎である。」

 こう書きましたのは、森有正という方で、戦後まもなく哲学者のパスカルやデカルトを勉強するために数年の予定で、フランスに渡りました。しかし、26年間亡くなるまでフランスで研究をされました。その日記の一部です。キリスト教の学者や哲学者から学ぶ中で、このような考えを書いています。

 わたしがこの部分を読みましたときに、本学院の歴代の校長や、創立者がよく口にされます「いろいろな人や、いろいろなものによって、自分は生かされている」ということと、宗教こそ違え通じるものを感じました。

 また、近ごろマスコミなどで取り上げられます「個人」ということに対しましても、その基本的な考えが大きく違うことに気づかれることと思います。マスコミでいわれる「個人」の問題は、なにか違う方向ではないのかと、また、かたよった見方をしていることに、気がつかされます。
ホール舞台上の天女
◆●では、宗教を持つ学校とはどういうものなのでしょうか

 最近では、よく個人の権利ばかりがとりだたされ、自分中心で、相手との立場を公平に見なくなっているような感じがします。人とのコミュニケーションが上手にいかない。それ以上に、相手が見えなくなってしまい、自分も見失いかけている、という状況での問題が多くなっています。それを、カリキュラムや学力から捉えようとすることで、その一部なりとも解決する考えることは、大きな誤りを犯してしまいかねないでしょう。

 本学院は、浄土真宗の宗門校であります。最近では仏教系の学校というと、どうも、妙な偏見をお持ちの方がいらっしゃいます。仏教でありましても、キリスト教でありましても、その基本にありますのは、人間の育成や人間としての生き方を中心に考えております。とても抽象的ないいかたですが、人は何かをよりどころにして生きています。「苦しい時の神頼み」という言葉もありますが、それぞれの人がそれぞれの何かを信じて生きているのではないのでしょうか。それは、キリスト教でもいい、仏教でもいいのです。ただ、まちがったものや事を信じてしまうこと、そこに問題があります。宗教系の学校ではなにも、その宗教を強制することはありません。基本的な人間としての生き方や、広い意味での人間をそだてはぐくむことを、基本に置いています。

 ヨーロッパの大学に理科系よりも人文系に優れた大学が多いのも、そのあらわれの一部でしょう。

 宗教系の学校に学ぶということは、宗教に対する偏見をなくすばかりでなく、自分の進む方向性を正しく見ていこう、そして、その中で本当の自分を知ろう、つまり自己発見の場だと思ってください。自分の発見から、人に対する思いやりや、自分の生きる目的をつかみとり、その目的にむかって努力することを学びます。その中で、人に対する気持ちが育まれていくのです。

 わたしたちの学校でも同じで、わたしたち教員は、生徒に教えているのではなく、学んでいる。保護者の方に支えられているという気持ちを、いつも持つように心がけて毎日を送っております。

◆●本校の宗教のおさらい

 本学院は先にも記しましたように、浄土真宗の宗門校であります。全国各地に同じ宗教の中学や高校、大学があります。
浄土真宗の祖となりますのが、小学校のときに社会で学んでいることと思いますが、親鸞上人(しんらんしょうにん)という方です。みなさんもよくご存知の「善人もて往生する、まして悪人をや」という言葉は有名で、乱世、貴族の中にありまして、全ての民衆を愛された方です。

 その師に法然(ほうねん)という方がおりますが、鎌倉時代のはじめにその考えを広めました。今でも「法然上人絵巻」として、当時を知る貴重な美術品が残されております。法然は、念仏を唱えれば、みな往生できると考えまして、全国を回り、今まで貴族を中心に信仰してきた仏教を日本国中に広めました。新しい世界観を、わかりやすく民衆に広めたともいえます。

 ちょうど、源氏と平家が争い、鎌倉幕府ができたころですが、世間も政治も不安定でした。また、今までにない出来事、武士により天皇が流されてしまう、承久の乱が起きたころです。法然は当時の古い考えの貴族や僧侶には、その考えがあまりに新しくて抵抗があったようです。

 当時、僧侶の最高の位置にいる天台宗(てんだいしゅう)の座主(ざす)にいました慈円(じえん)という方はその日記『愚管抄(ぐかんしょう)』の中で

 「又建永(けんえい)ノ年、法然ト云上人アリキ。マヂカク京中ヲスミカニシテ、念仏宗ヲ立テ専宗念仏ト号シ[中略]順魔(じゅんま)ノ教ニシタガイテ得脱スル人ハヨモアラジ。カナシキコトドモナリ。(また建永年間のこと、法然という上人があった。京の市中に住んで、近年になって念仏宗を立て、専修念仏を立て[中略](法然のように考える者は)悪魔の教えにしたがって救いを得ることのできる人は決してありえない。悲しむべきことである」(元漢文)

 とまで書いてあります。

 法然も親鸞も広い宇宙の中で、全ての人が人間であり、人間はどのように生きていくべきかを考え、日本各地に広めました。自分からコミュニケーションの輪を広げて行ったのです。コミュニケーションをもってして、すべての人を愛し、学んだのです。そこには、いつも相手がいました。そこから得られた情報を集めて正しく判断し、よりよい道を進むことは大変困難を極めたことと思います。キリストにしろ、親鸞にしろ、そういうことができたからこそ、後の世に残る大きな宇宙観を作り得たのではないのでしょうか。

 これは、本学院の姿でもあります。生徒や保護者とのコミュニケーションを大切にして、よりよい学園を作ることをいつも心がけています。
 
◆●日本古来から情報教育はあったのでは……

 小学生や中学生をお持ちの保護者の方にとりまして、ご自分のご幼少のころと、今の日本やそれをとりまく世界や状況が、大きく変わられたことに気づかれていることでしょう。そのころ考えていたよりも、情報面でも、工学の面でも大きく進歩してきました。残念ながらまだ「鉄腕アトム」が空を飛び、「ロボコン」が街を歩き、2001年に宇宙の旅へは行けませんものの、電卓が身近になり、ビデオが、CDが普及し、各家庭でコンピューターやFAXが置かれ始めていることを、空想できたでしょうか。

 情報ということには、古来日本人は大きな関心を寄せてきました。これは、日本という海に囲まれた狭い土地という環境も大いにあると思いますが、それだけではないようです。最近の研究では飛鳥・奈良時代にはわたし達が想像するより、かなりの情報を集め、発信していたことがわかってまいりました。遣唐使・遣隋使はご存知と思いますが、例えば、公道(現在の国道にあたるもの)でも、かなり広い道幅と整備がなされていた事が最近の調査でわかりました。平城京にしろ大通りは幅約9メートル以上あったといいます。また、飛鳥地方に残る遺跡などを見ましても、明らかに日本人の容貌ではなく、さらには日本では当時考えられないような発想のものもあることが分かっています。飛鳥は当時において、シルクロードの終着点でもありました。ですから、ユダヤ教やキリスト教も多く入ってきていたことが分かります。

 ただ残念なことに、平安時代も中ごろを迎えますと、外に目を向けなくなってしまったようです。しかし、平安時代の中期から内面での情操が進む、という現象が起きているのも確かです。
コンピュータルームでの音楽の授業
◆●21世紀の情報教育とは

 そう考えますと、情報という問題はいまさら急に始まったものではなく、日本人は昔から関心が深かったといえましょう。
 今では、その情報手段が大きく変わってきている、そう考えてみてください。

 一人一人が自分で情報を取り入れることができる時代になりました。ただ、その情報が正しいものか、正しい選び方か、そしてその情報を集めた後、どのように生かして行くか、さらに、そこからなにができるかというようなことが、問われ始めています。

 情報教育というと、すぐにインターネットとでてきます。「本校ではインターネットができますコンピューターがあります」、というようなことで終わってしまう場合があります。それは情報教育とは、まったく異なることと思います。

 保護者の方がまだ小学生だったころ、シャープペンシルが高価であったり、テレビも今ほどは普及していなかったのではないでしょうか。これからは、書く道具がコンピューターであり、情報を得るのがコンピューターである、そうお考えになった方がよいと思います。今、わたし達はテレビや雑誌から発信方の選んだ情報が流れ込んでいます。それに左右されて本当のもが見えにくくなっていると思います。また、自分の欲しい情報を探すことも大変な時間がかかります。それを、いかに活用するのかが、情報教育の原点ではないでしょうか。
 インターネットは確かにその手段としては、今考えるものとしては最適なものです。しかし、快適なものは一歩間違えば、とんでもない手段や道具になってしまいます。

 必要とする情報をどのようにつかむのか、どのように見分けるのか、どのように自分で正しく判断できるのか、そしてそれを自分のものとして、どのように生かしていくのか。さらに、どのように発展させ、作り上げて行くのかが、情報教育のあり方だと思います。

 インターネットで調べるということは、情報の発信元を国内に限ることではありません。当然そこには語学が必要になります。世界に向けて発信し、世界の情報を使いこなす。それも、正しい考えでもって。

 情報教育と、国際教育、語学教育は別なものではありません。情報教育は、情報科という特別なものでもありません。国語でも、数学でも、社会でも、理科でもあらゆる科目に応用できる一つの手段なのです。

 また、インターネットを通じて学校生活や生徒の様子が、家にいながら保護者の方に見られるものとなります。一方、学校に対する意見やご要望を寄せていただくだけでなく、さまざまな生徒の悩みや保護者の悩み、お考えを直接にお寄せ頂く道具でもあります。

 情報は一方通行であってはなりません。お互いのコミュニケーションと信頼の上に成り立っていることが前提にあります。それを受けて、学校がよりよい方向へと進めば、いろいろな情報が生きたことになります。

 わたし達は、お嬢様方ご卒業された後、10年、20年先にも今学んでいますことが、生かされてゆく情報教育を考えたいと思っております。
校舎の入口
◆●ゆとりの教育

 先にも記しましたように、今の教育に本当に「ゆとり」がないのでしょうか。

 保護者の方々が学生を送っていましたころは、今よりも授業時数が多かったはずです。それでも、多くの方はそれで毎日ゆとりなくお過ごしだったのでしょうか。

 今、「授業時数の多いことが、生徒のゆとりをなくしている」というような報道がなされ、また、その通りであるかのような雰囲気がおきております。今回のカリキュラム改訂も、そのあたりが中心になってきているようです。

 2002年からのカリキュラム改訂を、よく見ますと、保護者の学びました半分以下の内容でしかなくなっています。

 わたし達が恐れますのは、学力の低下が=国の力の低下につながるのではないかということです。例えば数学に関しましても、今までは、日本の数学の力は世界の中で最先端を行くものでした。今回の改訂ではアメリカを例に取りましても、年間50時間以上少ない。将来を担う今の小学生などは、かなりの学力低下を免れません。

 学力を暗記や詰め込みと考えているから、このような考えが生まれてきてしまうのではないのでしょうか。暗記や詰め込みは学習です。学習は人間でなくてもできることなのです。学力は、考える力を身につけ、養うことです。その履き違えのため、誤った方向に向かおうとしています。一貫校では、ゆとりを持ちながら、6年間学習して行きます。中学で学んだことの重複を避け、分からない部分を復習し確実な力をつけてゆきます。そうすれば、自然と「ゆとり」は生まれてきます。6年間あるから、一つのことを多くの面から勉強し、興味をわかせる時間が生まれて行きます。

 確かに、個人差によって得手不得手が生じることがあります。しかし、初等科教育におきましては、得手不得手は、好き嫌いという教える側の問題もあるわけですし、少し分からなくなれば、嫌いになってしまう場合も生まれてきます。

 不得意科目が好きになれば当然、得意科目も伸びてきます。そのためには、生徒個人個人の資質をよく見なければ、伸びるものも伸びません。短期間ではそれを克服できないままに終わってしまいます。まして、高校受験ともなれば、主要教科しか勉強しなくなります。しない教科は高校に入りまして、当然分かりませんから、苦手教科になってしまう傾向があります。

 6年間は勉強ばかりでなく、その生徒の発育に合わせて将来を見ていく期間なのです。それを手助けし、その生徒をいちばん多感な時期に長く見ていくのが、一貫教育の一つの利点だと思っています。

 一貫でないと、3年で受験、また3年で受験、最後はただ大学に行くための受験というように、自分の将来をよく考えた上で、また適性や「ゆとり」をなくして進学してしまうという結果が、生じてしまいます。

 今から6年後には首都圏では、大学全入という時代を迎えます。よくいわれることですが、選ばなければ大学はどこでも入れる時代を迎えます。そのときに、二つの方向の大学が生まれるでしょう。一つは将来を見据えた研究期間としての大学、もう一方では単に就職するためだけの実学的な大学です。前者は、将来の日本を担うもので、後者はともかく資格だけのものとなる可能性があります。当然、今よりも厳しい少子化・高齢化の時代を迎える中で、実学を学んでも将来、その仕事につけるとは限らなくなってしまいます。

 それでいいのでしょうか。本学院では、これから女性の力が社会で大きな意味を持ち始めることを考えています。女性の役割が今以上に期待される時代を向かえるにあたって、一貫校としての意味の大きさを考えています。この6年間は、将来の夢をどのように現実化していったらよいのか考えたり、自信と本物を見分ける目を養ったりする期間だと考えております。
校門から続く長い並木道
◆●保護者の方の青春時代を振り返ってみましょう

 1970年代、庄司薫氏の『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、ベストセラーになって読まれた方も多いのではないでしょうか。主人公薫君は東大進学を目指しますが、学園紛争の最中受験できなくなります。その間彼は最後にこう考えます。

 「ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。その中で、由美のやつがもうなにも気をつかったり心配したり嵐を恐れたりなんかしないで、無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。(中略)この大きな世界の戦場で戦いに疲れ傷つきふと何もかも空しくなった人たちが、何故とはなしにぼくのことをふっと思いうかべたりして、そしてなんとはなしに微笑んだりおしゃべりしたり散歩したりしたくなるような、そんな、そんな男になろう………」

 これと同じ時期に読まれたアメリカの作家、D.Jサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』でも、主人公は人生に傷つき、将来は大きなライ麦畑で子供達が自由に遊びまわり、そこからがけに落ちないようにいつも見守るキャッチャーになろう、と考えます。当時は、ベストセラーになりました。

 今、お子さん達がこのように考え、それを口にしたら、教員や保護者の方はどのように思われるでしょうか。しかし、現実にはこのような考えを持つお子さんは、たくさんおります。一方、大人は子供に挫折がないように、つらい現実で傷つかないようにと考えてしまいます。保護者でしたら当然の事だと思います。ところが、どんなお子様でも、何かしらに傷つき、挫折を味わわねばならない。それを大人がどのように対処するかが大きな問題なのではないでしょうか。

 今問題になっている「ゆとり」の教育とは、このようなことを考え、また、傷つくことを恐れた「ゆとり」なのではないのではないかと思います。

 多感な中学生・高校生は、さまざまな面で壁にぶつかり、挫折や苦しみを自分で乗り越えることによって、成長して行きます。それを、守ることばかりしか考えないで「ゆとり」ということをいうのであれば、人間としての成長をさまたげてしまうのではないでしょうか。子供を守るということは大変大切なことですが、度を越えてしまいますと、子供の枠を作ってしまうことになります。そうなりますと、人と人とのコミュニケーションが大きく損なわれてしまいます。

 今はやりの、小人数学級はこれに近いものがあります。授業は小人数で行えば、きめこまかく、その生徒にあった授業ができますが、学級自体も小人数ですと、教員の目が行き届きすぎたり、成長するにしたがって息苦しくなりかねなくなってしまいます。さらに、自分の周りの人間が少ないため、その中でしか自分が見えなくなってしまう可能性が生まれます。そうなると、先程記しましたコミュニケーションや情報教育に大きな支障が生じてくることと思われます。

 保護者の皆さんは、そんな小人数の中で毎日を多くっていたでしょうか。いろいろな人との出会いが、今のご自分を作られてきた一つの力と思われませんか。
生徒によるガーデニング
◆●「ゆとり」と授業

 授業時間を削減する「ゆとり」、これにはなにか「ゆとり」という言葉で惑わされていることに気がつかれたことと思います。

 2002年から中学校で始まります「総合学習の時間」は、考えようによれば、今まで多くの私学が行ってきたきたことを、カリキュラムに入れたことに他なりません。逆にそのような時間を設定することは子供の総合性を身につけることを、カリキュラムで枠を作り、与えられた授業となって、子供の自主性や判断力を阻害しかねない枠組みを作ってしまう可能性さえ生まれてきます。

 一方、公立の高等学校では単位制のいわゆる進学校や、その逆にフォローアップ校など、学校間での種分けをはかるような計画が進んでおります。しかし、首都圏の各都県では、一貫校は2〜3校ほどしか作る予定はないようです。これは、私学と違い一貫校を急に作ろうとしましても、なかなか難しいものがあります。私学では長い間、考えながらよりよい方向へと進んでまいりました。昨日今日にできるものとは思っておりません。
 そんな中、公立高校進学の時、お子様の将来も限られたものとなってしまいます。そこにお子さん達は、どのような夢を描けるのでしょうか。ただ大学に行くための進学であるならばよいのですが……。

 この7〜8年で大きく変わってきたことは、その前でしたら公立は大学進学実績で、私学を大幅に上回るものでした。しかし、カリキュラムの改訂とともに私学の大学実績は公立と逆転してしまいました。さらに、今私学では、進学実績だけでなく、将来性を考えての進学に取り組んでいます。

 公立が新カリキュラム改訂とともに「ゆとり」を重視するのであれば、その学力差は大きく開くことは疑い得ません。しかし、一貫教育においては、「ゆとり」を異なる視点から行っていました。

 私学の一貫校では、入学した生徒が自分を知る上で他の人とのコミュニケーションを大切に、生徒一人一人の可能性を信じ、それが日本だけでなく世界を相手にできるような人間の育成を考えています。単に大学進学、有名校進学というのではなく、自分の将来を考えた結果としての進学を望んでいます。そのような大きな意味での人間形成、広い知識と経験を持った人になってもらうため、お手伝いをしたいと考えています。

 「ゆとり」は作られるものであり、与えられるものではありません。それは、個人個人の考えやとらえ方が違いますから、その違いを大切にするのが私学の一貫校の役割だと思っております。

◆●これからの学校づくりに向けて

 私学は一貫校がたくさんありますが、100の私学があれば100の考えのもとに学校があると思います。ですから、私学はすべて同じではありません。

 今は、共学校が人気を呼んでいます。また、自由な校風が人気を呼んでいます。ところがアメリカでは、最近になりまして別学志向が高くなり、私服をやめて制服を始める学校が増えてまいりました。これは、共学校であるがゆえの問題や、私服であるための問題が多く出てきた結果だと思います。それは、新聞やインターネットで調べれば分かることと思います。

 さて、日本で自由といいますと、欧米の考える自由との大きな隔たりがあります。どうも日本では自由=我意(自分の思うままに)と思いがちです。自由はそのような自分だけよいという考えからほど遠いものです。自分が自由であるためには、相手の自由も考えなければなりませんし、認めなくてはなりません。それは、冒頭に載せました森有正の一説にもあります。相手を尊重して始めて自由があります。自分が自由にしたいからといって、相手の自由を奪ってしまうことは、当然、相手を考えなくなってしまいます。そうすると、思い通りにならなくて、身勝手な行動にすぐ結びついてしまいます。

 制服があることが自由でない。という考えは、では、警察官や、デパート、ファーストフードの店員が自由ではないのでしょうか。

 自由はそんなに簡単なものではありません。自由=我意と考えてしまえば、相手が見えない方向へとどうしても進まざるを得ない。さらには、自分を追いこんでしまう結果となってしまうのです。

 先にも記しました、21世紀に生きるためには、国内ばかりでなく世界に目を大きく向けなければなりません。情報教育も同じです。国内だけでは収まらない広い視野と考えを持つ、国際人を育てることにあります。そこで、いろいろな国の考え方の違いを理解できなければ
、本当のコミュニケーションは生まれません。それは、相手を思いやり、理解することから始まり、そこから自分探しが始まるのです。
 

◆●武蔵野女子学院のもつ環境とは

 本学院は、ご存知ない方も多いと思います。東京都に隣接する場所であれば、どこからでも通学可能な学校です。

 敷地は約30.000坪、敷地を外側から一周いたしますと、約1時間ほどかかってしまいます。正門から校舎まで約5分ほどの、森に囲まれた学院です。敷地には武蔵野の原生林も残し、さらに、生徒や卒業生が一本一本植樹した木々が育っています。また、生徒の発案で、中庭や校舎の回りにガーデニングをしたり、中庭には畑を作ったりと、自然に恵まれた環境の中で毎日を過ごしています。そのために、あえて自然に親しむ授業がなくとも、生徒は自然を大切にし、自然の中で過ごしています。

 環境が人間を形成するという、19世紀のダーウィンの進化論を持ち出すまでもなく、生徒はのびのびとした環境の中、四季を身体中に感じ取って、すこやかに成長しているのは、教員の一人としてうれしくも、ありがたく感じています。

 また、大学や大学院、幼稚園も併設されており、武蔵野女子大学を併願して他大学受験もできますし、幼稚園児と日々接しますので、思いやりが自然と生まれてきているようです。

◆●終りに

 いよいよ世紀の終りを告げる年を迎えます。19世紀末はヨーロッパ全盛の時代でした。ヨーロッパの発展と挫折が、日本にも大きな影響を受けてきた世紀でもあります。

 ヨーロッパ文明もさまざまな意味で行き詰まりを見せてきました。絵画でも、モネやマネの印象派からセザンヌを経て、ピカソの抽象画、そしてポップアート、その後新しい絵画の流れは滞ってしまいました。小説も、彫刻も、さらには政治も、哲学も同じです。それとともに日本でも、明治以降大きな影響の中、現在に至っています。

 21世紀の日本が世界の中での役割を今以上に持つことは、明らかなことです。
 例えば、20世紀に考え出されたフランスの文学理論もすでに、平安時代には生み出していました。絵画も室町時代には欧米に先んじて、尾形光琳や俵屋宗達などを生み出していました。しかし、明治から昭和にかけて、それらの価値が充分に評価されてきませんでした。その伝統を大きく受け継ぐ、今の小中学生は、日本の文化を充分に理解して、世界に向けて飛び立とうとしています。それが、情報教育の一環であり、総合教育の一部になるはずです。

 21世紀の教育は、長い先を見ながら生徒の将来を考え、育まなければならないと思っております。生徒の適性と、生徒の希望、さらには入学された後の20年、30年先を見越した上での、教育が大切かと思います。本学院は女子のみの学院です。75年間女子教育を行ってまいりました。これからは、女子であるがゆえに求められること、できることが多く求められることと思います。

 女子の一貫校とは、多感な時期の女生徒を育むことは、将来を見据えた上での女性としての特性を十分生かした教育を今まで以上に行わなくてはなりません。それは、一貫校だからこそできる、そう考えております。

 これから学校をいろいろと選ばれることと思いますが、十分に納得されて、よい受験をされることを願ってやみません。

 長々と書きましたが、皆様の学校選びの参考になれば幸いです。
1999年12月26日寄稿

ページ中の写真はすべて武蔵野女子学院校内の写真です。

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