NTS教育研究所NTS教育研究所
ホーム教育を考えよう:私学の先生方の教育コラム

私学の先生方の教育コラム29
女子聖学院研究紀要より
世紀末日本の閉塞状況―どこから打開すべきか―

女子聖学院 校長 小倉義明先生
 

<序> 1999年の夏

(1) 江藤 淳氏の自殺

 1999年の夏、いくつかの印象に残る出来事がありました。その内の二つが特に印象が残っています。一つは江藤淳氏の自殺です。彼は、評論家であり、作家であり、大学教授であり、現代日本の知識人の最高峰の一人と言ってよろしいと思います。この江藤淳氏と私は、高校時代に同窓でありました。彼は、私より一年上級であったと思います。当時、彼は日比谷高校の三年生、私は夜間部の二年生でした。昼間部と夜間部とは学ぶ教室が一緒というだけで、何の関係もない学校でしたが、ただ、雑誌部というのがあって、「星陵」という雑誌が出版されることになりました。その雑誌に夜間部からも参加しないかとの呼び掛けがありまして、私ともう一人の夜間部生がその昼間部の集まりに出席いたしました。司会をしているのが、後の江藤淳でした。この人が、一年先輩かと思うほど、口達者で、見事な統率ぶりでありました。その後、二十年ほどは、お互い知らなかったのですが、ある時、必要を感じて彼の略年譜をみましたら、私と同年期に日比谷高校に在学していたことがわかり、そして、雑誌部長とでていましたので、あの時の座長が江藤淳であったのかと合点した次第です。そのようなつながりから、この鋭敏な頭脳の持ち主の書くものを関心をもって読んでまいりました。先日は『文芸春秋』に吉本隆明が、追悼文を書いておりました。その文章の中に、小林秀雄の次は江藤淳だとありました。小林秀雄は日本の文芸批評の創始者にして完成者であると言われています。その後を継ぐにたる人物となると江藤淳であると、吉本隆明が言っておりました。江藤淳氏の思想については手放しで褒めるわけにはゆかない、注意しなければならない人物であると思っておりますが、しかし、同世代の人物が死ぬということは私にとって、考えさせられることがらでありました。文学者、文芸家たちの自殺は、芥川龍之介、太宰治、川端康成といった人がいましたが、芥川や太宰は、近親の特別な遺伝形質もあるでしょうし、体力がきわだって弱くなっていたということも原因となっていたと考えられますし、女性問題もゆき詰まっていたということなどもありましょう。そして、ある時もう何もかも嫌になってしまった、「もう死にたい」といって死んでいったのであろうと、吉本隆明も指摘しています。それはそれなりに解る、けれども、江藤淳の場合はそうは言えない。「妻を語る」という彼の最後の文章の切々たる、愛情溢れる内容から、大変な愛妻ぶりがうかがえます。ですから、芥川や太宰などとは違うのです。これ程健康な、これほど恵まれた人はいないのです。しかし、子供もなく、妻に先立たれ、月並みな言葉でいえば孤独だったのでしょう。それと、病苦がありました。脳梗塞と前立腺炎であったようで、まいっていたようでありました。彼の遺書は短く「病苦に耐えず。友よこれを諒とせよ。」というものでありました。自分の死を「病苦」と自己限定しているのです。それ以外の理由を付けないで欲しいといっているのです。その江藤淳のはなしは別の機会にお話することもあると思いますが、同世代であるがゆえに、その死は、私の胸にしみたといえます。

(2) 「国旗・国歌」法の制定

 もう一つ、今日は、「国旗国歌」の法制化についてお話したいのです。去る7月22日、衆議院を通過し、8月上旬には参議院で通過して法となりました。衆議院では賛成403、反対86の圧倒的多数で可決しました。新聞でもあまり取り上げられませんでしたし、社会問題、政治問題にほとんどならなかったといってよいといえます。読売新聞、東京新聞、日本経済新聞が賛成、朝日新聞、毎日新聞などが反対でありましたが、その反対も決して強いものではありませんでした。要するに、国旗、国歌は事実上、もう「日の丸」「君が代」が用いられているのだし、それを今更法制化するのは如何なものであろうかという程度の消極的反対であったといえます。そういうこともありまして、あまり、話題になりませんでしたが、私はこれに、非常に大きな関心を寄せております。何故、今、法制化が必要だと考え、これを推進したのであろうか。去る2月下旬、広島県の県立高校の校長先生が、卒業式に「国旗」を掲揚するかどうかで、職員組合と県教育委員会との間にはさまれて苦しんで自殺されました。その直後、野中官房長官が、「国旗、国歌は、法制化する必要がある。そうしないと、現場の校長先生がたは、苦しむことになる」といって、法制化を打ち出したのが始まりでした。3月4月になりますと、全国高校長会のレベルで、「法制化はやはり必要ですよね」という話が全国の高校長の代表からでてきました。会の席上「私は必ずしもそうは考えません」と言っているうちに法律になってしまいました。何故、改めて、この時期に法制化しようとしたのでしょうか。

<1> 世紀末の日本の状況

(1) 「坂の上」の土砂降り

 司馬遼太郎は、「坂の上の雲」という本を書いていますが、この本の一番最後の場面は、正岡子規の病床を見舞った連合艦隊の参謀であった友人が、坂を上ってゆくと坂の上のほうに雲が浮かんでいる、そのような光景であったと思います。明治の初年から日露戦争の直後までを書いた、日本が近代国家として成長してゆく上り坂の状況を描いている、感動的な名作であると思います。司馬遼太郎は、少なくともその物語では、日本が近代国家として眉根をあげて大空を見上げて、「空に青雲がかかっているな」という顔を上にあげているイメージで、日本国家および日本国民を描いたのです。
 しかし、今日は、坂の上に上ってみたら、土砂降りであったといえるのではないでしょうか。いまだ脱却できないバブル崩壊後の深刻な不況であります。バブル崩壊がはじまったのは、1991年、2年頃でしょうか、93年には深刻化しておりましたから、もう十年近く不況が続いています。それ以前を思い出して下さい。80年代の初めから、日本は浮かれにうかれておりました。バブルとは知らず、人々は浮かれておりました。その時には気付かなかったことが、今こうなってみますと、経済的な破綻が原因であったわけですが、そのへんからわが国の国家目標が消えてしまっていたのです。1960年代、1970年代の高度経済成長時代には、人々は脱政治的になっており、エコノミックアニマルなどといわれながらも、政治や軍事に深入りしないで、ひたすら経済的復興、繁栄を求めてひた走りました。それは、それなりに、人々に生きる満足を与えました。そこに、日本国家の進路があるかに見えました。その頃は、年々物が豊富に出回り、手に入らなかったものが手に入るようになり、豊かになってきたという実感を人々が感じることができました。三種の神器などとも言われました。電気洗濯機や電気掃除機、電気冷蔵庫、テレビ、自動車など一つ一つ手に入れるたびに人々は驚喜しました。
 二十世紀後半を生きてきた私たちは、世にも楽しい、おもしろい時代を生きてきたことになります。生きることに充足感がありました。ところが、バブルが崩壊してみて、それまでの経済的な豊かさを求めてきた生き方、それに基づく充足感は、何であったのであろう、と考えさせられ、人間が生きることについて真剣に考えさせられることになったのではないでしょうか。個人レベルにおいてだけでなく、民族、国家全体のレベルにおいて、この戸惑いが生じたのです。聖学院大学の総合研究所の客員教授をされ、現在日本銀行総裁をされている速水優さんは、今から十年前『海図なき航海』という本をお書きになりました。速水さんは、日本銀行の外国局長をなさった後、日商岩井の社長、会長を歴任され、経済同友会の代表幹事を歴任されました。単に企業家というだけでなく、世界的エコノミストでいらっしゃる。世界的な証券金融問題がわかるかたです。この速水さんが、日本は海図がないままに走っているタイタニックのようなものだと指摘されているのを読んで、背筋が寒くなりました。今日、バブルの崩壊とともに、日本社会の行方は呑気に構えていられない状況であると言えます。
 経済的、外的なものに止まらず、倫理的崩壊が進んでいるといわざるをえません。バブル経済が盛んであったころ、銀行、企業は大変自信と力に満ちて、経済活動を行っていました。長期信用銀行といえば、頂点にたつ存在でした。それが、一朝にして崩れ去った。しかもそのトップが背任行為のようなことを行っていた。そういうことが、バブル崩壊後、次々に明かになってきています。経営者達が、自分の企業に深い自覚と責任感を持ち、企業や国家の将来を見通していたわけではなさそうだということを知らされて、これは、他人まかせにしてはいられない、という思いを抱かざるをえません。のみならず、神戸の少年Aの事件や、今年の夏には妻が夫や子供を殺すという事件が長崎でおこりました。これは、現代人の根深い見過ごすことのできない大きな問題であると言わざるをえないと思います。

(2) 憂慮する人々

 さて、このような倫理的な崩落について人々は憂慮するのです。こんなことで、日本国家、日本民族の将来はどうなるのだろうという憂慮です。その心配は私も同じ様に感じております。若い人々をみて、この人達は大丈夫かなと、心配になることがございます。私達の世代は、「ないない尽くし」からはじまりました。与えられるごとに感激し、有り難いと思ってきました。今の子供達は、最初から、何でもあるなかで、育っております。最初から与えられてしまっておりますから、有り難い、もったいないという感じがありません。若い世代に対して、これで大丈夫かな、という思いを持ちます。そこである人達は、このままにしてはおけない、と考えて、「国旗、国歌」法の制定を考える訳です。

<2> 20世紀後半の日本社会

(1) 「戦後民主主義」への告発

 そこで、二十世紀後半の日本社会をたどってみたいと思います。第二次世界大戦後、1945年からの半世紀間をたどってみたいと思います。太平洋戦争後、日本は民主主義国家になりました。しかし、この民主主義国家あるいは社会に対し重大な疑義を唱え、告発する人々がいます。曰く、この民主主義は米国からの押し付けである、現在の日本国憲法は、米軍の占領政策の中から生まれた落とし子である、と。つまり論者は、民主主義や日本国憲法に対して、わが国の自前のものではない、在来の日本の伝統から遊離した、外から押し付けられたものであるという疎外感を強く感じているわけです。
 彼等は、「自由というのは問題である。放縦と腐敗になってしまっているのではないか」といいます。まさに、その通りであります。民主主義の内容は自由と人権でありますが、問題はそれが、エゴイズムを野放しにしていることです。エゴイスティックな人権の主張が社会の分裂を引き起こしている。今日の日本社会は収拾がつかないほど、野放しの状態です。このため彼等は、国家が分裂してしまってどうしようもない、在来の日本の伝統へ立ち返るべきである、と主張します。戦前と戦後の連続性を見出そうとするのです。先程、江藤淳氏は、なかなか優れた才能のある評論家だと申しましたが、警戒すべきだとも申しました。江藤淳は今指摘したような考えを持っているのです。今年、東京都知事になった人もその考えに近いです。この人のすることは、なかなか大胆で目立ちますが心配がありますので、有権者は関心をもって、その行動に注意しなければならないと思います。

(2) 三島由紀夫の政治的死

 三島由紀夫はすでに三十年前に、戦後の民主主義を憂えていました。三島由紀夫は、市ヶ谷の駐屯地、元の参謀本部で、自衛隊の兵士にむかって決起を促しました。自衛隊はアメリカ軍の手先になっていていいのか、アメリカの手先となっている政治家たちに「ノー」と言いなさい、といって決起を促した、しかし、自衛隊は動かなかった。その場で三島は割腹自殺をいたしました。この死は文学的な死ではなく政治的な死であったと思います。自分の烈しい死がいつの日か日本民族と国家にとって政治的意味を発揮するであろうということを期待した上での死であったのではないか。
 彼の作品に「英霊の声」というのがありますが、太平洋戦争中になくなった兵士たちが、亡霊となって、繰り返し繰り返し怨嗟の声をあげます。英霊たちは繰り返し「などて天皇は人間となりたまいし」というのです。天皇陛下はどうして人間宣言してしまったのかというのです。天皇は1946年の一月早々、「人間宣言」をいたしました。三島はそれに反対だったのです。天皇が神であることをやめて、人間であるなどと言ってしまったら、戦争中「お国のために」「天皇のために」といって死んでいった英霊が浮かばれないではないか、彼等の死が無駄死、犬死になってしまうではないか、というのです。だから、天皇はあくまでも、神秘的な存在、神格化された存在であり続けて欲しかったというのです。戦後の民主主義体制は、天皇が神であることを止めて普通の人間となってしまったというところに現れているように、平等主義的な社会となり、そこから、救いようのない分裂と混乱が生じたのだと指摘するのです。
 三島の中にあるのは、民族の統合です。こんなばらならな、自分のことしか考えないような国民ではいけないのだ、国民としての誇りと自覚をもって、国民精神を振るいたたせなければならない、そのためには、何か中心が必要だ、というのです。その中心というのは、皇室なのです。天皇なのです。ですから、戦後民主主義への批判や評価は、天皇制の問題と結び付くのです。幸なことに、天皇制は過去五十年間、現憲法の枠内、象徴でとどまりました。今まではさいわいそれでまいりましたが、ここで、国旗とか国歌とかが強調されねばならないという動きがでてまいりますと、象徴だけで止まるのでしょうか。防衛庁の共済組合が建てた市ヶ谷会館では、日本郷友連盟東京本部などの戦争中のつながりがいまだに続けられて会合をもっているのです。また、国立教育会館で会合をしておりますと、皇国御盾隊とか護国義塾などという集団が軍艦マーチや太平洋戦争中の軍歌をかけながら、街宣活動をしております。このような勢力があるということは、そのような思想や行動を暗々裡に認めていたり、利用している層があると言わざるをえません。天皇制が突如日本史のなかに、沸騰してくると日本国はきわめて不幸な状態になってゆくと思います。

<3> 美智子皇后の講演

(1) 悲哀への共感と強い意志

 以上のように、天皇制には今後とも留意してゆかねばならない点があるのですが、けれども最近、皇室の中に上述の憂慮を拭ってくれるような一筋の光を私は見出だした思いをもっております。皇后美智子さまが、最近本をお出しになったことをご存じだと思います。これは、『橋をかける―こども時代の読書の思い出―』という本でして、これは、1998年9月、インドのニューデリーで世界児童図書協議会が開かれた時に、美智子皇后がゲストスピーカーとして講演をたのまれました。美智子皇后はこの会議に出席できませんでしたけれども、講演をビデオテープに撮って、国際会議の初日に会場で上映され、大変評判になったものです。ここでは彼女は少女時代に読んだ本のいくつかをあげております。大変な読書家であったようであります。しかし、作者の名前や本の題名を挙げてゆくなかで、三箇所具体的に内容に立ち入って話していらっしゃるところがあります。
 第一は「でんでん虫のかなしみ」という新美楠吉の作品の次のような箇所であります。すこし長いのですが引用いたします。

 「そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、と答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも返って来る答は同じでした。そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は、このでんでん虫が、もうなげくのをやめたところで終わっています。」

 今年の中一の軽井沢生活では、この「でんでん虫のかなしみ」が、彼女たちへの読書課題で、それについて学びました。私は、中一の教師方のこのセンスに敬意を感じております。
 もう一つ、エーリッヒ・ケストナーというドイツの詩人であり小説家でありますが、次のように触れられております。

 「ケストナーの『絶望』は非常に悲しい詩でした。小さな男の子が汗ばんだ手に一マルクを握って、パンとベーコンを買いに小走りに走っています。ふと気付くと手の中のお金がありません。町のショウウインドウの灯はだんだんと消え、ほうぼうの店の戸が閉まります。少年の両親は一日の仕事の疲れの中で、こどもの帰りを待っています。その子が家の前まできて、壁に顔をむけじっと立っているのも知らずに。心配になった母親が探しに出て、子供を見つけます。『いったいどこにいたの』と尋ねられ子供は激しく泣き出します。
 この山本有三が編集した世界名作選には『絶望』の他にも、ロシアのソングーブという作家の『身体検査』という悲しい物語が入っています。貧しい家の子供が学校で盗みの疑いをかけられ、ポケットや靴下、服の中まで調べられている最中に別のところから盗難品が出てきて疑いがはれるという物語で、この日、帰宅した子供から一部始終を聞いた母親が『何も言えないんだからね、大きくなったらこんなどころじゃないんだから。この世にはいろんなことがあるからね』と嘆く言葉が付け加えられています。思い出すと、戦争中にはとかく人々の士気を高めようと勇ましい話しが多かったように思うのですが、そうした中でこの文庫の編集者が『絶望』やこの『身体検査』のような話を何故ここに選んで載せたのか興味深いことです。生きている限り避けることのできない多くの悲しみに対し、ある時期から子供に備えさせなければいけない、という思いがあったのでしょうか。そしてお話の中のでんでんむしのように悲しみはだれもが背負っているのだということを子供達に知って欲しいという思いがあったのでしょうか。」

というふうに編集者の意図を推察しているのです。
最後に三番目。

 「父のくれた古代の物語(というのは『古事記』ですが)の中で、一つ忘れられない話がありました。年代の確定できない六世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子と呼ばれるこの皇子は父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いてはこれを平定して凱旋するのですが、あたかもその皇子の力を恐れているかのように新たな任務を命じ、息子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き皇子は結局これが最後となる遠征にでかけます。途中、海が荒れ皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた妃、弟橘比売命は自分が海に入り海神の怒りを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し、覆奏してほしいといい、入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌をうたいます。

さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも

 このしばらく前、建と弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀にあって草に火を放たれ、燃える火に終われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は『あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ』という、危急の祈りに皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。悲しい、『いけにえ』の物語は、それまでも幾つかは知っていました。しかし、この物語の犠牲は、少し違っていました。弟橘の言動には、なんと表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意思的なものが感じられ、弟橘の歌は、―私は今、それが子供向けに現代語に直されていたのが、原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですが―あまりにも美しいものに思われました。『いけにえ』という酷い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。
 古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。」

 この方は大変な人物だと思います。一言で申しますと、この皇后美智子様には人間の存在に不可避的にまつわる悲哀に対するセンスがあります。「でんでん虫のかなしみ」でとりあげられたような、そして、ケストナーの「絶望」にあるような、子供がだれにも訴えられなくて、深いやるせない、どこにも持っていきようのないような行き詰まりを悲しむ気持ちに、少女時代に忘れられない印象を受けており、そして、この弟橘と建の古代の人物たちの話しを通して愛と犠牲の不可分離性に強い衝撃を受ける訳です。それに共感をしているのです。私は、美智子様という女性が、普通の、といってもお金持ちの家庭であるとはいえ、皇室からくらべれば所詮平民の家から嫁いで、おそらく堅苦しい皇室の世界の中に入っていって、どういう経験をし、どういう気持ちになったか、を推察します。「任務の分担」という言葉が用いられていました。建には敵と戦い、征服するという任務がある、それに対してその任務を遂行させるために、自分がなすべきことは何かという弟橘。彼女の犠牲の死の中に、ある意思的なものを感じ、任務の分担を考えているのではないかという皇后の受け止めに、この女性が皇室の中にあって、自己の任務を考えているということを感じます。あっぱれであると思います。こういう人が日本の偏狭なナショナリズムに利用されかねない皇室に入っていったことは、日本国家にとって本当に幸せであると思います。

(2) その教育的背景

 何が、彼女をそうさせたか。父親からたくさん本を与えられたと書いてありました。もう一つ、彼女はカトリックの学校で学んでいます。中学高校が双葉、大学が聖心女子大学です。この彼女の精神史のバックボーンがカトリシズムであることは明らかだと思います。彼女の講演の一番最後を、世界の図書教育の指導者たちに対して次のような挨拶をもって締め括っています。

 「どうかこれからも、これまでと同じく、本が子供の大切な友となり、助けとなることを信じ、子供達と本とを結ぶIBBYの大切な仕事をお続け下さい。
子供達が、自分の中に、しっかりとした根を持つために
子供達が、喜びと想像の強い翼を持つために
子供達が、痛みを伴う愛を知るために
そして、子供達が人生の複雑さに耐え、それぞれに与えられた人生を受け入れて生き、やがて一人一人、私共全てのふるさとであるこの地球で、平和の道具となっていくために。」

 子供達が痛みを伴う愛を知るために、子供達が人生の複雑さに耐え、それぞれに与えれた人生を受け入れて生き、そして、平和の道具となるために、とありますが、この最後の言葉「平和の道具となれ」という言葉は、アッシジのフランシスコの「平和の祈り」の最後の言葉です。ということは、アッシジのフランシスコとか、聖書とかいう言葉は用いられていませんが、彼女の思想の根底にはあきらかに少女時代からうけたカトリックの教え、聖書の教えがあります。読む人にはわかります。愛と犠牲の結び付きなどというのは、皇室の世界にはありません。言葉が、概念が、ないと思います。

<結語>

(1) 「民主主義」を高く把握する

 それでは、結びに入ります。「民主主義社会」と「大衆社会」とを区別したいと思います。戦後民主主義社会がこれでは困るといわれるように、確かに憂いにおいては、私も同様の気持ちを持っております。民主主義社会は不可避的に大衆社会になっていく傾向があります。何故かというと、そこにある自由と権利の原理はだれもが、自由であり権利を持ちうるという原理だからです。だれもが、それを持つことを認める社会です。しかし、自由のなかには、腐敗への自由も含まれるのです。世俗化してゆくのです。ですから、戦後間もなく日本人は、アメリカ人のあの自由な態度の中に抑圧から解放された清々しいものを感じるとともに、アメリカ映画に登場するような何か世俗性をたまらなく思ったのでした。ごく最近、韓国が日本映画の上映を認めましたが、それまで、解禁しなかったのは何故かといいますと、中国もそうなのですが、日本社会のもつ俗悪さが入ってきては困るということであったのです。民主主義社会は大衆社会になってゆくことがさけられない。人間の自由のなかには、俗悪を喜ぶ根深い傾向性があるゆえに自由を認めると悪に向かってゆく。
 にもかかわらず、大衆的な世俗社会とは区別された、高い意味での民主主義社会を、私たちは構想し、それの実現を目指したいのであります。このような社会を、最近は「市民社会」といっています。「市民社会」と「世俗社会」は区別せねばならない。論者が心配するのは世俗的な社会のことです。私たちは、今日の民主主義社会をして近代的な正しい意味での「市民社会」へと持ち上げてゆかねばならないと考えます。

(2) 人間の尊厳と俗悪―聖書の人間理解の深さ

 民主主義というのは、全ての人に自由と権利を認め、全ての人は本質的に平等だという考えかたですが、これは元来、その成り立ちからいって、宗教的なのです。人間が平等であるとは、神の御前において平等なのです。ですから、民主主義という考え方の根底は、元来宗教的なものなのです。自由と人権、人間の尊厳、人間がなにものも侵してはならない尊厳を持っている、それは、神の御姿がこの中に宿っている、ということなのですね。神はご自身の御子さえもおしまないで、そのかわりにあがないとして与えたもうまでに私たちの命を愛して下さっている。だから、尊厳なのです。しかし同時に、限りなく俗悪になってゆく傾向性を持っている。聖書はこれを罪といっています。神の前の尊厳と神を無視して神を逃れようとする俗悪とこの二つが同時にある。そこに、人間として生きることの喜びといいますか緊張といいますか、それと、悪や罪に対する戦いをしてゆくということが、人間理解にどうしても必要なのではないでしょうか。聖書の人間理解の深さをしみじみと感じるのであります。
 今日はここにお花があります。このお花についてお嬢様がたからお聞きになったでしょうか。先週の土曜日、一人の老婦人が学校にいらっしゃいました。このお花を持ってこられました。この婦人が、腹痛と気分が悪くなって池袋駅で屈み込んでいたとき、四人の女学生が「どうしましたか」といって介抱してくれて、西が原の自宅まで送ってきてくれた、というのです。九月一日で、学校が始まる前で、女学生は私服だったそうです。名前を聞いたが、言わなかったので、学校は、と聞くと女子聖学院といっていたので、お礼に尋ねて下さったのです。高校二年生であることがわかりました。これは、嬉しい話しでした。聞くものの心に、いいしれぬ喜びが沸いてまいります。このような話しを聞くと人間を信頼する気になれると、次の月曜日、火曜日に生徒に話しました。人間は信じられるのだ、人間が生きるということは嬉しいことだ、人間は生きてよいのだという気持ちにさせられますね、と話しました。若い人の心について、先ほどは殺伐とした例ばかりお話しいたしましたが、このような例もあるのです。人間不信に陥ってはならないと思います。こういう心が育ってくるのです。育てねばならないと思います。そのためには、私たちは人間理解を深く持つ必要があると思います。俗悪なるものに傾きやすいその傾向性について、相手をせめるだけではなく、自ら省みて自分の中にもそのことがあることを知りつつ、しかし、人間として信じられており、信頼されており、愛されていることの感激、慰めを、若い心におおいに語ってまいりたいと思います。世紀末日本のこの閉塞状況は、このような教育から打開しうるのであり、また打開してゆかねばならないのではないでしょうか。

※本稿は、PTA文化部主催の「聖書を読む会」の例会(1999年9月16日)において語られたもの。話し言葉の曖昧さを克服して文章にまで調整して下さったのは、本『紀要』編集者の大塚明子教諭である。私の拙い話に、意味を見出して、労の多いこの作業をすすめられた先生の友情に感謝する。

2001年12月17日寄稿



このページのトップへ▲
ホーム教育を考えよう:私学の先生方の教育コラム